[演奏会」「語り物」としての受難曲、J. S. バッハ「ヨハネ受難曲」エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団京都公演

午後、京都コンサートホール。非常に素晴らしい公演だったと思うのですが、「えっ?」と思う意見をいくつか見かけたので私なりの感想をまとめてみたいと思います。
この公演のポイントは、「図」と「地」の逆転ということではないかと私には思えました。

第一に、演奏会ではあるけれど、音楽が主、言葉が従「ではない」という姿勢が一貫していたということ。第1部と第2部に先だって聖書などの朗読が行われたのは、教会での礼拝がそうであるように、音楽という「歌われる言葉」を、朗読という「語られる言葉」とともに提示しているように見えました。これは、受難曲を(バッハの)「音楽」に言葉が付随したものとしてではなくて、イエスの受難に関する「言葉」に音楽的抑揚のついたものとして受け止めるための仕掛けだったのではないでしょうか。

「はじめに言葉ありき」という有名なヨハネ福音書の一節が読み上げられたあとに、オーケストラの混沌のなかから合唱の「言葉」がひとつ、またひとつの浮かび上がってくるわけですから、この狙いは、ただのお題目ではなく、具体的に実際の演奏に反映していたと思います。

そして、たとえ客席にいる私たちがキリスト教信者ではなかったとしても(事実、私自身もクリスチャンではありませんが)、この演奏会の間は、ここが教会であって、神を思い、神の創り給うたものとしての現世を思い、救世主を思う信仰者のつもりになったほうがより一層入り込める公演になっていたように思います。(私達はロマン派オペラを観るときには、精霊や悪魔をひとまず受け入れて観ているわけですから、教会音楽を聴く間だけキリスト者のつもりで「なりきる」ことは、可能だし許されるのではないでしょうか。)

レチタティーヴォとアリア(ということはオペラ風の様式)でテンポ良く先へ先へと進む「お芝居」の部分と、シンプルな旋律を繰り返して、時間がぐるぐる同じところを回っているように感じられるコラールの部分には、はっきりと別の時間が流れていて、コラールは、ちょうどギリシャ劇のコロスのような位置づけを与えられているように思いました。イエスの受難という一回的な「出来事」が、コラール(コロス)で一般的・普遍的な「真理」になる。自分がペテロになったつもりで自分の弱さを見せつけられたようにどぎまぎしたり、なすすべもなく流されて「イエスを殺せ」と叫ぶ群衆のひとりに自分がなってしまったように感じてはじめて、コラールの言葉が「染みる」し、言葉が染みるためには、こういう風に、一場面ごとに時間が止まって、じっくり考える「間」が必要。受難曲がそういう風に構成された「教化」装置なのだということを、今回の演奏はリアルに体験させてくれたのではないでしょうか。

そしてすべての事件が終わり、最後のコラールで時間が止まった先で歌われたモテットは、ラテン語のア・カペラであることがポイントだったように思います。今回の公演では、ここでオーケストラの「楽音」の支えがなくなって、人の声だけが浄化されて、普遍的な言葉(ラテン語)が高みへ昇っていく演出なのだろうなと聴きながら思いました。混沌のなかから「はじめの言葉」が浮かび上がってきた冒頭ときれいに対応している「終わり=目的地」だったんじゃないでしょうか。

以上が、「言葉が主、音楽は従」(ただし音楽がいいかげんだったという意味ではまったくなく、むしろ、見事に言葉に寄り添う素晴らしい演奏、主従は価値判断ではなく役割分担の意味です)と思ってこの公演を聞いた感想です。

そしてこの公演には、おそらく、もうひとつの「図」と「地」の逆転があったように思います。それは福音史家の役目に関わること。今回は明らかに、アリアやコラールといった歌が主、福音史家の語りが従「ではなかった」ように思います。福音史家は、ちょうどオペラの抜粋上演でカットした部分のストーリーをナレーションで補うような意味での芝居の「補助」ではなくて、福音史家の「語り」こそが主役。彼の差配で人物たちが順番に舞台へ呼び出されてゆく様子は、太夫の語りに沿って人形たちが芝居をする文楽みたいだなあと思いながら、私は観ていました。(歌舞伎でも、人形浄瑠璃にもとづく演目では、義太夫節にのせて、役者さんが「生きた人形」として演技する演出がありますよね。この公演の構造はそれを連想させる。)

ちょっと悪のりして言ってしまうと、アリアを歌うどの歌手よりも雄弁で様々な声色を使い分ける練達の「語り手」マーク・パドモアは、さながら伝説の名人、豊竹山城小掾みたいなものかもしれないと思いました。

コロムビア至宝シリーズ SP盤編 豊竹山城少掾

コロムビア至宝シリーズ SP盤編 豊竹山城少掾

そしてさらに悪のりですが……、もし武智鉄二が今生きていてこの公演を観たら、裃を着て舞台上手に正座する福音史家の語りで、着物姿のイエスやピラトがナンバの所作で演技する「歌舞伎調演出によるマタイ受難曲」を自腹で上演して物議を醸したのではないか。そしてどこかの古楽器団体を巻き込み、日本の古典芸能の様式で「メサイア」やバッハのカンタータを連続上演する「武智オラトリオ」をシリーズ化して、「冒涜だ」とキリスト教団体と古典芸能団体の両方から猛烈な非難を浴びて、それに反論する武智鉄二と激烈な論争が展開したのないかと(http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/takechi-tetsuji200803.html)、そんなことを妄想してしまいました。

悪のりの妄想はともかく、「言葉」を中心に据える演出という点でも、「語り物」というスタイルを生き生きと実現するパドモアの慧眼と歌唱力という点でも、これは確かに画期的な公演だったのではないでしょうか。