武智鉄二演出「月に憑かれたピエロ」(円形劇場形式による音楽劇の夕べ)の音楽スタッフ

ひきつづき時間がないので簡単に。

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二評伝で紹介されていた西澤晴美さんの論文を取り寄せて(http://ci.nii.ac.jp/naid/40016632949)、さらに、同じ西澤さんが編集した実験工房資料集と読み合わせて、

ドキュメント 実験工房 2010

ドキュメント 実験工房 2010

  • 作者: 大谷省吾,大日方欣一,山口勝弘,東京パブリッシングハウス,西澤晴美
  • 出版社/メーカー: 東京パブリッシングハウス
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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1955年12月5日、産経国際会議場での「円形劇場形式による音楽劇の夕べ」、武智鉄二演出によるシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」の様子がかなり具体的に見えてきました。

これに先立ち、実験工房は1954年10月9日、銀座のヤマハホールの「シェーンベルク作品演奏会」で、既に「ピエロ」を演奏しています。『日本戦後音楽史』によると、この54年の演奏が「ピエロ」の日本初演。(入野義郎の指揮、声は福澤アグリヴァ、ヴァイオリン・岩淵龍太郎etc.。)詞は、資料に明記されてはいませんが、原語(ドイツ語)ですよね。この54年の「ピエロ」日本初演は、音楽関係者にも知られている公演だと思います。

日本戦後音楽史〈上〉戦後から前衛の時代へ 1945‐1973

日本戦後音楽史〈上〉戦後から前衛の時代へ 1945‐1973

一方、1955年の「ピエロ」は演奏スタッフが違っています。当時の批評によると、渡辺暁雄の指揮するラモー室内楽団。(やくぺん先生、渡辺和さんの黒沼俊夫評伝にもラモー楽団で「ピエロ」をやった話が出ていたはずなので、この情報で間違いないと思います。)

黒沼俊夫と日本の弦楽四重奏団

黒沼俊夫と日本の弦楽四重奏団

そしてこのときのソプラノは、関西歌劇団の浜田洋子さんですが、具体的に考えていくと、想像を絶する難役だったと思われます。

テクストは、武智鉄二の依頼で秋山邦晴が作成した日本語の訳詞ですし、楽団と一緒に譜面を見ながらの立ち歌いではなくて、能の観世寿夫、狂言の野村万作と一緒に、三人でパントマイム風に演技をしながらの歌唱です。

当然すべて暗譜ですし、武智鉄二の演出は、衣装を着替えながらの演技だったそうなので、動きの段取りもかなり多かったはずです。考えれば考えるほど、「よくやったよなあ」と思わざるを得ない役柄と言えるように思います。

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音楽関係者の間で、(実験工房が関わっているのに)この武智演出「ピエロ」が知られていないのは、ひとつには、これを『音楽芸術』で批評した清水脩の文章がやや突き放したような内容だからなのが大きいかもしれません。

で、清水脩は、「ピエロ」の詩・音楽が本来もっている表現内容とは無関係に、武智鉄二がアンフォルメルの演技を付けているかのように書いているのですが……、

西澤さんがまとめた資料を見ると、そういうわけではなさそう。

野村万作がピエロ、浜田洋子がコロンビーヌ、観世寿夫がアルルカンと、コメディア・デラルテの役柄があって、武智鉄二が設定した三人の関係の推移は、「ピエロ」をフロイト風に読み解く形になっていたようです。

清水脩には理解できなかったかもしれないけれど、前衛演劇としては、割合正攻法というか、筋の良さそうな読み方をした演出であるように見えます。

もちろん、目論見どおりの結果になっていたのかどうか、当日の舞台写真と批評が残るだけで、歌がどうだったのか(どうやら、語りよりベル・カントで「歌」に近く、歌詞が聴きとりにくいとの感想が多かったようですが)、照明や演技のバランスがどうだったのか、今となってはわかりません。

(日本初演の次の年でメンバーも変わってますし、ソプラノが暗譜で演技もするとなると、音楽面は、かなり厳しかったのではないか。批評やコメントを残しているのは、実験工房関係者や演劇関係者ばかりです(「東京新聞」には戸板康二の劇評が出たみたい)。そうした方々が気づかないところで、音楽は大変なことになっていたのではないか、とも想像されます。)

でも、たとえそうであったとしても、この座組で「ピエロ」をやるのは凄い。武智鉄二の前衛演劇の代表作ではあるでしょうね。

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さてそして、この公演は「断絃会主催」だったようです。ということは、武智鉄二が経費を自分で出したのだと思われます。彼は、この公演を「試演」と言っています。自分のやりたい構想を、自分の納得できる人たち集めて、自分がお金を出してやる、ということだったのでしょうね。当時は、この手の新しいことを武智鉄二は次から次へとやっていたのだからすさまじいことです。

ただ、今でもそうですが、こういう個人の自主公演には、職業的な音楽ジャーナリストは個人的なつながりがなければ、まず行かない。しかも「断絃会」という戦時中の関西で始まった古典芸能の会の名前での公演ですから、音楽のほうでこの公演が知られていないのは、物理的に、「誰も行っていなかった」という可能性がありそうですね。