1950年代、晩年の大澤壽人の消息について(追記:日本の洋楽における「コスモポリタニズム」のこと)

(9/7、最後にやや長めの「追記」あります。)

「関西の作曲家について調べるんだったら、神戸に大澤壽人という作曲家がいますよ」と、ある人から伺ったのは、2004年の春頃だったと思います。でも間もなく、既に片山杜秀さんが遺族とコンタクトを取っているだけでなく、岡田暁生さんが関心を持っているらしいこともわかって、「これだけ大物の方々が参入しているんだったら、私の出る幕はなさそうだな」と思ったのでした。

その後、片山杜秀さんは本当に献身的に大澤壽人を「発掘・復活」させてくださいましたし、岡田さんは、先日出たばかりの「CD&DVD51で語る西洋音楽史」でも丸々一章を割いて、大澤壽人を熱く語っています。

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

これだけ華々しく持ち上げてくれたらもう安心。関西フィルはこのところ毎年のように大澤作品を蘇演していますし、順調に関心の輪が広がっていると言えそうです。

ただ、岡田さんの近代日本作曲論の情報源は、もっぱら片山さんや佐野仁美さん(近代日本のフランス音楽受容が専門)であるようで、やや話が同じところをループしている感じがあって、そこが若干の不安材料。もうちょっと色々な角度から話が広がったほうが面白いんじゃないかな、という気もしています。

この夏、1950年代の朝比奈隆や大栗裕のことを調べるついでに見つけた雑誌記事をもとに、晩年の大澤壽人の消息について、いくつか書いてみたいと思います。

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まず、『音楽之友』1953年7月号、関西交響楽団(大フィルの前身、当時創立6年目)の初の東京公演時のインタビュー記事。インタビュアーは、朝比奈と京大時代に一緒にメッテルに学んだ間柄の宮沢縦一さん。

宮沢 関西の作曲家はどうです。
朝比奈 たくさんいるけれども、映画の仕事をしてる人がかなり多いので関西は映画の盛んなところだからね。それに放送局も三つもあるから、そこでいろいろなドラマとかそういうものをやつている人があり、又宝塚劇場という舞台がある。この三つのスタッフなんだな。だから諸井先生みたいに、書斎に閉じ籠つてシンフォニーを書いているという人がいない。
宮沢 大沢寿人はどうしてます。
朝比奈 もつぱら放送局や映画をやつているようで、顔を合わすときがないです。

とりあえず、朝比奈さんと大澤壽人に戦後、あまり接点がなかったらしい、ということですが、私は、(細かいことのようですが)宮沢さんのほうから「大沢寿人はどうしてます」とわざわざ水を向けているのが興味深い、と思いました。1950年の段階で、少なくとも宮沢さんのような事情通は、大澤壽人のことを忘れたわけではなかったようです。

秋山邦晴の本などを読むと、宮沢さんが戦争中に政府で文化統制の仕事をしていたことがわかります。宮沢さんは、大澤壽人が1930年代に帰国してからの活動を当然、知っていたはずで、事情は戦争中から色々な仕事をしていた朝比奈隆も同じはず。そうしたお互いの記憶を踏まえた上での会話なんだろうと思います。

昭和の作曲家たち――太平洋戦争と音楽

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1950年初頭の段階では、大澤壽人は、まだ「歴史から完全に消えた(消された)存在」ではなかったのですね。

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続いて『音楽之友』1956年6月号の故・柴田仁さん(関西の音楽評論家、当時は新聞記者)による大栗裕の紹介記事。ちなみに、関西歌劇団は同年3月に芝祐久作曲「白狐の湯」と大栗裕作曲「赤い陣羽織」(1955年6月初演)を東京で上演しています。

東京でもすでに彼の作品「赤い陣羽織」が聴かれて、彼に対する価値評価もいろいろでているだろう。
彼の略歴をいうと、ブラスバンドで有名な大阪の天王寺商業をでて、昭和十六年中央交響楽団[東フィルの前身]に入つて、兵隊から帰つてきて二十一年にN響、当時の日響に入りホルンを吹いていた。二十三年七月に大阪に帰つてきて宝塚[歌劇団]でホルン演奏者として活動するかたわら、大沢寿人らと音楽運動をやろうとしたこともあつた。二十五年の関西交響楽団の改団のとき招かれて関響のメンバーとなつた。

大栗裕は、N響を辞めて関西へ戻り、短期間宝塚歌劇団に所属していたようです。大澤壽人は奥さんが宝塚出身で、歌劇団のためにも作曲しているので、ここが二人の接点だったのでしょうか。

大澤と大栗裕では作風が随分違いますし、はたして話が合ったのかどうかは不明。それでも、もし大澤壽人が長生きして、大栗裕と良好な関係を保っていたら、ひょっとすると、大栗裕とともに、関西歌劇団の創作歌劇運動(1955年開始)に加わって、オペラを書く可能性だってあり得たかもしれない、そう考えると、返す返す残念です。(大澤壽人は1953年10月逝去。)

先の朝比奈隆のインタビューにあるように、1950年代前半、関西で「諸井三郎流の」書斎でシンフォニーを書くような作曲家はいなかったようですが、大栗裕が朝比奈隆の後押しでオペラや管弦楽曲で成功すると、1950年代後半に、ベテラン&中堅の「四人の会」(高橋半、野口雨次郎、網代栄三、宮原康郎(←宮原禎次の弟))や、もうちょっと若い世代の「えらん」(中村茂隆、本田周司、岡田昌大、徳永秀則、松下眞一、前田和男)といった作曲家のグループ活動が関西でも立ち上げられたりしたようです。

片山さんがよく書かれているように、大澤壽人は、戦後望むような活躍の場がなく、あまり幸福ではなかったようなのですが、せめてあと5年生きてくれていたら、また違った展開があったのではないかと……。

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そして最後に、時間が前後しますが「音楽之友」1954年1月号には、2ページの大澤壽人追悼文が掲載されています。執筆者は、大澤がラジオ番組のパーソナリティをやっていたABC朝日放送の音楽プロデューサー、岩尾良治氏。

岩尾さんは、大澤壽人の自宅の部屋の様子をこんな風に書いています。

お二階には作曲部屋があつた。誰も入つてはいけない御自身だけのこの部屋へも、二三度呼ばれたことがある。部屋を入つて右側の壁には出身校である関西学院の校旗、その下に大沢さんが留学されたアメリカのボストン大学の旗、それと並べて、ハーバート大学の旗が貼りつけられ、左側の壁には大沢さん指揮のボストンシンフォニー・オーケストラの記念写真が貼られていた。

戦前には高校まで進学者する人はまだ少なかったはずで、海外へ私費留学した人はさらに限られていますから、学歴を誇りに思って、部屋に学校の旗を飾るのは、それほど珍しいことではなかったのかもしれませんが、ともあれ、そうした青年時代の思い出は、ご本人にとって大切なものだったのでしょうか。

そしてこんな会話があったそうです。

私がはじめてお伺いした時、大沢さんは「岩尾君、僕が外国へ行つたのはもう大分昔だから、あと二三年したら僕はもう一度必ず行くよ。そしてウンと勉強して、もつともつといい物を書きたい。君も一緒に連れて行つてやるよと仰有つたのを思います。

戦後、1952年に日本が主権を回復して、(外貨持ち出しは厳しく制限されてはいたようですが)海外へ出る可能性が再び開けた時代。朝比奈隆は1953年末から翌年初めにアメリカ、ヨーロッパを視察していますし(このときのベルリン・フィル事務局訪問が1956年のベルリン・フィル出演につながった)、吉田秀和も、1953年末から約一年間かけてアメリカ、ヨーロッパを回っています(晩年のトスカニーニやフルトヴェングラーの実演に触れたのはこのときです)。

大澤壽人も是非もう一度海外へ、の思いがやはりあったのですね。

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もちろんこれは岩尾さんの目に映った姿であって、母校や留学時代への思いや、海外への思いが大澤壽人本人にとってどの程度切実だったのか、別の資料や証言と付き合わせないと、断定はできません。でも、彼の作品から受ける雄弁で洒脱な印象と、ちょっと違った一面かもしれません。

岡田暁生さんは、大澤の戦前・留学時代の音楽について、日本人にありがちな卑屈な劣等感を感じさせない「(若い頃の白州次郎を連想させるような)板についた余裕綽々のヨーロッパ紳士ぶり」、「日本人と西洋音楽とのつきあい方の、最も幸福なありよう」と絶賛するわけですが……、岩尾氏が描く晩年の消息は、もうちょっと冷静に、大澤壽人のことを立体的に考える手掛かりかもしれないな、と思います。

以上、私はあくまで他のテーマを追いかけるなかで偶然、記事を見つけたにすぎません。でも、この感じだと、大澤壽人に最初から狙いを絞って戦前・戦後の資料を探れば、色々なものが出てくるんじゃないでしょうか。若くて根気のある人、誰かやってみませんか?

(余談ですが、岡田暁生さんの新著は、取り上げられている作品について、ここまで聞きこむか、凄いなと思う美しい箇所がたくさんある反面、ショスタコーヴィチ論で引き合いにだすのがもっぱら冷戦時代にアメリカで出た「証言」であったり、実証的なデータ面ではこれで大丈夫なのかな、と思うところもある気がします。古くさい区別ではありますが、岡田さんが「作品を通して歴史を知る」と言うときの〈歴史〉や〈作者〉は、あくまで作品を通してその向こうに仮構される「美的」な領域であって、資料から再構成される「経験的」領域には、あまり関心がないのでしょうね。なので、この本を読んでいると、CDとDVDというメディアが、私達の住むこの世界とは別のもうひとつの「仮想世界」への入口であるような気がしてきます。まるでSFのなかのホログラム装置みたいな感じ……。「その世界」における「ソ連」は、ラフマニノフの作品の向こうへ見える「ロシア」とは天と地ほどちがっていて、まるで冷戦時代のスパイ映画に出てくるような、一切同情の余地のない「鋼鉄の帝国」……。そんな恐ろしい領域を含みつつ、もう一方に洗練を極めるヴィスコンティ「イノセント」のサロンやコルビオ「カストラート」の劇場があり、最深部には「マタイ受難曲」が鎮座していて、隅っこのほうに「奇人ジェスアルド」や「ピーターパン症候群のシューベルト」がいて、カラヤンやクライバーがホログラムのヴァージョンアップやメンテナンスに心血を注ぎながら息絶えて、とりあえず「西洋」と名付けられている「その世界」は、脆く儚く、もはや崩壊寸前かもしれないけれど、私達の住む世界よりもはるかに美しく魅惑的ではあるのですが。)

[大澤壽人に関する追記]

岡田暁生さんは、大澤壽人の「堂々たる世界市民を演じきる戦前関西/阪神沿線生まれの大旦那」ぶりを絶賛するときに、返す刀で、日本の民族的ないしフォークロ的(民俗的)な要素にすがる態度をこっぴどく批判します。(岡田さんの情報源と思われる片山杜秀さんはこういう単純な図式化はしないので、この日本主義嫌悪は、岡田さん固有の立場と思われます。)

戦後関西の作曲家というと「コテコテの」土俗性を想像する向きもあろうが、

大澤の作風は実に洗練されており、不器用なフジヤマ芸者的民族主義のかけらもない。

[大澤には]日本的要素をアピールすることで「本場」に認めてもらおうとする、汲々としたところは皆無だ。「刻苦勉励の結果の小器用な模倣」という意味での日本的要素すら、ここには存在しない。

だが大澤は、西洋音楽を相手に卑屈な笑みを浮かべて揉み手をするわけでなく、「アジア文明の代表選手として欧米文明と対峙する」とばかりに背中を反り返らせるわけでもなく、[...]

こんな風に、一方を持ち上げるために、他方を戯画化に貶める「非対称的な対比」は、歯切れのいい論争的な文体の常道で、それほど珍しいレトリックではありません。(岡田さんのご専門である19世紀ヨーロッパの音楽文献は、この種の勇ましいレトリックの宝庫。)岡田さんは、「日仏交感の近代」所収の論文でも、同じようなレトリックを連ねていらっしゃいます。

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

ただ、単に「非対称的」(一方ばかりをよく言っている)なだけでなく、その比較相手が具体的に明示されないまま話が進むのが気になります。

こういうのは、実名入りでやったほうが面白くなるのではないでしょうか?

「コテコテの土俗性」として想像されがちな関西の作曲家とは誰のことなのか、「不器用なフジヤマ芸者的民族主義」、「刻苦勉励の結果の小器用な模倣」、「西洋音楽を相手に卑屈な笑みを浮かべて揉み手する」とは、どの作品のどういうしぐさを指して言っているのか。

それとも、こうしたイメージは、大澤を持ち上げるための「踏み台」として召還された、岡田さんの頭のなかにしか存在しない「幻影」なのか。

次に同じレトリックで大澤壽人を語るときには、是非、明示していただきたいと思っております。

「エキゾチズム」や「オリエンタリズム」が、自文化(西洋)の自意識の補集合(しばしば実体がない)を現実の他者へプロットすることで生まれたことはよく知られていますし、私たちの21世紀は、そうした「異者への眼差し」(差別・侮蔑と怖れ・憧れがない交ぜになった)を、当然生まれてしまう歴史的・文化的な所作のひとつと受け止めることができる程度には多元的な「オトナの世界」であるように思います。

コスモポリタンに憧れる視線から補集合的に生成される「不器用なフジヤマ芸者的民族主義(への嫌悪感)」について、岡田さんには、是非とも、実名を挙げて赤裸々に語っていただき、近代日本の歴史・文化の風景を豊かに語る手助けをしていただきたいです。(しばしば「コテコテ」「土俗的」と評され、自らもこの言葉を好んで使った「関西の作曲家」、大栗裕のことを調べつつある者として、この件には強い関心を持っておりますので、是非、よろしくお願いします。)

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ところで、大澤壽人が帰国した1930年代の日本で「世界市民的」であることは、非常に危うい立場であったのではないかと思います。

教科書的な説明としては、日本の総動員体制が、表の顔としては「国粋主義」だったけれど、同時に、インテリ向きの一種の奥座敷として「世界市民的」にも解釈可能な「超国家主義」を用意していたのですよね。そして京都学派のたぶんほとんどの人には難解で理解できなかったであろう理論構成(私自身も詳しくは理解していません)が、「世界市民的/無国籍的」な心情を回収するイデオロギーとして機能した可能性が指摘されたりする。

そして大澤壽人も、(ピアノ協奏曲の「神風」はのちの特攻隊ではなく、朝日新聞社の飛行機の名前だそうですが)戦争中に時局に協力的な内容の作品を書いていたと聞きます。

戦後の不遇がそうしたことと関係があるのか、実際のところはちゃんと検証しないと今は何も言えませんし、仮に或る程度、「戦争協力への批判」があったとしても、だから自業自得だ、といえるような単純な状況ではなかっただろうと思います。

東京では、戦後、論壇に「超国家主義」の批判者の丸山眞男が出てきて、音楽でも、1950年代の「音楽芸術」を見ていると、戦前からの作曲家の仕事を総括しつつ、若手を誌面に起用して、世代交代を計ろうとしているような動きを感じます。(朝比奈隆の一歳年上、大澤壽人と同年生まれの深井史郎が、座談会で、「我々は、戦前は若手だったのに、戦争が終わると、あっという間に、旧世代扱いされている」と皮肉を言ったりしています。)

でも、関西では、委員会組織の新しいタイプの鑑賞団体「労音」(東京より先に発足して、「歌ごえ運動」との関係・距離感などが東京労音とはちょと違っていた印象を受けるのですが、詳細はまだ調べていません、誰か調べてください!)が隆盛な一方で、オーケストラ運動の中心は戦争中から仕事をしていた朝比奈隆ですし、関響の運営には大陸から戻ってきた原善一郎氏が入って、大阪国際フェスティバル(初回の名称は大阪国際芸術祭)の立ち上げには、戦前からのプロモーターのストローク氏が関わっていました。近衛管弦楽団も、最後は大阪ABC放送の所属になって、大阪国際フェスティバルの初期には、関響とともに、オープニングコンサートに出演したりしていたようです。

色々調べるうちに、私は最近、日本の文化状況は、1945年の敗戦で全部がリセットされたわけではなく、1960年頃までは戦前から地続きの要素が相当にあったのではないか、文化史的な切れ目は、1945年ではなく、1960年ではないか、と思うようになっています(安保闘争の年ですが、同時に、映画の衰退・テレビの普及、ホワイトカラー・サラリーマンの「中流社会」はこの頃からで、音楽雑誌の誌面作りの変化が、聴衆層の転換を感じさせます)。特に関西には、1950年代は戦前の続き、1960年代からが次の時代と考えざるを得ないことが多くあったような気がします。(そういえば岡田暁生さんと伊東信宏さんはちょうどこの1960年に京都でお生まれですね。)

本文で、大澤壽人が「あと5年生きてくれていたら」と書いたのも、そういう思いを踏まえています。

東京では、戦後、「戦前派」を脇へ追いやるような動きが明らかにあったと思われ、それが、『レコード芸術』の連載で長木誠司さんが書いている「運動(ムーヴマン←なぜかフランス語読みのルビがついている)としての戦後音楽」なのだと思うのですが、このとき、関西は、「戦前派」の「第二の人生」の舞台になって、東京に対する補完的な緩衝材の役目を果たしたように思うのです。(深井史郎も、戦後、映画音楽の作曲家として、たびたび京都を訪れている。)

私は、大澤壽人が京都の映画撮影所や民間放送局の仕事に忙殺されたのは、大局的に見ると、「不本意な世過ぎ」ではなく、「戦前派」のモデルコースと解釈することができるのではないかと思っています。

大澤壽人は本当に残念なことに50年代半ばに亡くなってしまいましたが、大澤の一歳年下の朝比奈隆は、こうした「緩衝地帯」としての50年代関西を生き延びて(新時代メディアの王様であったNHKからも排除された状態で!)、これが60年代以後の次の展開へつながりました。

70年代に入ると、大阪では、既に流行歌の作曲から離れていた服部良一(大澤壽人と同年生まれ)に「おおさかカンタータ」を委嘱して、「戦前派」世代を顕彰するようなことも行われました。

大澤壽人が死後忘れられてしまったのは、決して「周りがバカだったから」だけとは言い切れないのではないか。彼のことを覚えていた人は関西には少なくなかったはずですし(事実、今でも音楽関係で、水を向けると、「ああ、大澤さんね」と色々話してくれる人がいます)、本当に紙一重の巡り合わせだったのではないかと思うのです。