小石忠男さんのこと

「神戸の大澤壽人という作曲家のことを、あなた、やってみる気はありますか?」

小石さんが電話でそういう風に切り出されたのは、2004年の春頃、NAXOSから大澤壽人作品集が出る直前のタイミングだったと記憶しています。

自宅へ直接お電話をいただいたのは、たぶんそれが最初で最後。

その年の初めにお仕事でご一緒したときに、私が、関西の作曲家のことを調べてみたくて、大栗裕はどうかと思うのですが、と雑談したことがありました。それを覚えていてくださったのだと思います。

「大澤壽人」という名前はそのとき初めて知りましたが、既に片山杜秀さんが熱心に取り組んでいらっしゃることがすぐにわかりましたし、神戸女学院では、大学院に非常勤で来ていた岡田暁生が大澤に関心をもっているらしかったので、「これは私の出る幕はない」と思ったのでした。

大栗裕のこともその時はそれきりで、私が本格的に調べ始めるのは、3年以上あとになってからです。わずか6年前のことですが、その間に一気に状況が変わったということになるでしょうか。

小石さんとは年に2回、音楽クリティック・クラブの会合でお会いするのと、演奏会のときにごくたまに雑談をするくらいでしたが、

神戸女学院主催で兵庫の芸文センターとフェニックスホールであった「大澤壽人スペクタクル」のときには、休憩中にロビーで売られていたCD類を一緒に眺める流れになって、まだ持っていらっしゃらなかったらしいトランペット協奏曲のCDを、ご自身の分と、あと、私の分まで買ってくださって、ということがありました。

子供の頃、ヴァイオリンをやっていた縁で(貴志康一はもう亡くなっていましたが)貴志家へ行かれたこともあるそうですし、貴志康一の再評価には、甲南高校に記念室ができた頃からずっと関わっていらっしゃいました。神戸女学院が大澤壽人の遺品目録を刊行したとき、記者会見をやるようにアドバイスされたのは小石さんだったとも聞きますし、大澤壽人が再評価されたことを喜んでいらっしゃったのではないかと思います。

小石さんの評論文は、文章、言葉遣いが端正でした。文飾や駆け引きはなく、心の鏡に映ったことをそのまま素直に書く文章であったように思います。日頃の言動も同じ。評論家として独立人としてある、とはこういうことなのだ、と身を持って示す生き方をしていらっしゃる。間近でお会いするようになってまだ10年足らずですが、私はそう思っていました。

2006年4月から日経新聞大阪版の小石さんと同じ枠で音楽評を書かせていただくことになって、ここは真っ直ぐに書く場所なのだ、と強く意識したのを覚えています。

10月のびわ湖ホールの「トリスタン」は、5時間は辛いので白石君に書いてもらいたい、と小石さんからご提案があり、先週末のウィーン・フィル兵庫公演は、当初、小石さんが聴きに行かれる予定だったのですが、その矢先に、肺炎をこじらせた、とのことで入院されて……。とても心配していたところでの訃報になってしまいました。

ご冥福をお祈りします。