中丸美繪「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練」を読むためのブックガイド

少しずつ紙媒体には書評も出ているようですので、朝比奈隆生誕100年の年に出た中丸美繪さんの評伝について。(あわせて、中丸さんの前著、杉村春子伝についても後半で書いています。)

(11/5、全体の構成を見直しつつ、「朝比奈隆とブルックナー」の項目を追加。多少、読み通しやすくなったのではないかと思うのですが……。)

オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練/中丸美繪

オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練/中丸美繪

0. はじめに

(1) 出生の事情を含む高校卒業までの東京時代について、興味深い事実がたくさん紹介されていること、(2) 主に朝比奈千足さんの証言をもとに、プライベート、特に最後は癌に冒されていたという事実を(おそらく始めて)公表したこと、など、人生の出発点と終着点の記述が充実した評伝だと思います。それ以外のところも確かにびっしり書き込んである。

個々の描写の迫力がポイントだとは思うのですが、あえて大きくとらえると、中丸さんが描く朝比奈隆の生涯は三部構成の物語と言えそうです。

  1. 「誕生編」、さる大物実業家の私生児として東京に生まれて、大正リベラリズムの象徴と言うべき東京高校を卒業した若者が、

  2. 「流転編」、大阪という異境の地への都落ち。

    「交通通信が現代ほど発達していなかった当時、東京から箱根の山を越えることは別の文化圏に入ることを意味していた。」(63頁)

    中丸さんは、神戸女学院出身のピアニスト、中村智恵子さんの言葉をかなり印象的な場面で引用していらっしゃいます。

    「大阪にはドブ川みたいなものがたくさんあるんですの」(107頁)

    「水の都・大阪」の実態は「どぶ川」……。トホホです……。

  3. 「帰還編」、しかし試練を乗り越え、朝比奈は「どぶ川の街」に交響楽を育てて、晩年に生まれ故郷の東京で、そしてシカゴで「最後の巨匠指揮者」として祝福される。

やんごとなき主人公(貴種)が辺境の地で不遇をかこちつつ経験を積み、故郷へ帰還するハッピーエンド。古来、物語の型のひとつとして知られる「貴種流離譚」ですね(明石に左遷されてから京の都にカムバックした光源氏がその典型、「みにくいアヒルの子」、「ニーベルンクの指輪」のジークフリートの生涯もこのパターン)。

朝比奈隆という人が「物語的」な人生を生きた神話的存在だったということなのか、それとも、既存の物語を事実の力で食い破るべきノンフィクション評伝が「物語」の強力な磁場に取り込まれてしまったと見るべきなのか。そのあたりが、この本の評価の分かれ目かもしれない、と思います。

こういう見方もありうるのだな、こういう見方をしている人、これでひとまず「朝比奈隆」は明快に総括された、やれやれ、ごくろうさん、と納得なさる方というのが、ひょっとすると東京などに結構いらっしゃったりするのかな、なるほどなあ、と思う反面、それから、取材で得た情報をもとにこのタイミングで書くとしたらこういうまとめ方にならざるをえないのかな、とも思う反面、私個人としては、あまり嬉しくないというか、もうちょっと色々な方向に話が広がって欲しかったな、と思いました。

(ちなみに、全325ページという分量、80名以上という取材対象の人数、どちらも、中丸さんのこれまでの評伝(斉藤秀雄伝と杉村春子伝)より少なめです。もちろん、こういう数字だけで取材の質を推し量るなど、乱暴極まりない暴論ですから、あくまで参考データですが。)

朝比奈評伝が、文藝春秋読者層のオジサンの好みにジャスト・フィットの「貴種流離譚」的サクセス・ストーリーに回収されてそれでおしまい、というのでは本当に残念。この本の周囲にサブテキストをあれこれ配して、「貴種流離譚」色を薄めてしまおうといういうことで、朝比奈隆関連書籍を改めてまとめてみました。

書き上げてみると、このエントリーの文章は嫌がらせのように長々と書いています(本当にダラダラと長いです、すみません)。本の直接的な感想はとりあえずここまでに書いたことで終わりですので、あとは、興味のある方のみ、お時間のあるときにお読み下さい。

1. 朝比奈隆関連ブックガイド

1.1. 戦前・戦中

1.1.1. エマヌエル・メッテルとハルビンの音楽事情

東京高校から京都帝大というエリート・コースを進みながら、どちらかというと怠惰な劣等生であったらしい若き日の朝比奈隆を容赦なくしごいたエマヌエル・メッテルというロシア人指揮者はどういう人だったのか。

メッテル先生―朝比奈隆・服部良一の楽父、亡命ウクライナ人指揮者の生涯

メッテル先生―朝比奈隆・服部良一の楽父、亡命ウクライナ人指揮者の生涯

まとまった著作がこれしかなくて、しかも今は絶版なのは本当に残念ですが、メッテルが日本へ来る前にいたハルビンの音楽事情をまとめた画期的な岩野裕一さんの本は今も現役ですね。

王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

ハルビン関連では、朝比奈の下で弾いていた少年ユダヤ人ヴァイオリン奏者ヘルムート・シュテルンの人生(ベルリン→上海→ハルビン交響楽団→イスラエル・フィル→ベルリン・フィル)も波瀾万丈。自伝は読み応えがあるのですが、この本も今は絶版。

ベルリンへの長い旅―戦乱の極東を生き延びたユダヤ人音楽家の記録

ベルリンへの長い旅―戦乱の極東を生き延びたユダヤ人音楽家の記録

1.1.2. 上海の音楽事情と服部良一

朝比奈隆の上海滞在は数ヶ月だったけれど、おそらく「上手い本物のオケとのつきあい方」をここで学んだと思われる上海交響楽団については、榎本泰子さんの素晴らしい研究あり。

上海オーケストラ物語―西洋人音楽家たちの夢

上海オーケストラ物語―西洋人音楽家たちの夢

楽人の都・上海―近代中国における西洋音楽の受容 (研文選書)

楽人の都・上海―近代中国における西洋音楽の受容 (研文選書)

アジア諸都市の洋楽は、今や日本以上に勢いがある情勢みたいですし、これからは音楽好きの「基礎教養」になるかもしれませんね。

それからメッテルの弟子といえば、朝比奈隆の一歳年上の服部良一も重要。服部良一は、朝比奈がハルビンにいた頃、上海で音楽活動をやっていました。

上海ブギウギ1945―服部良一の冒険

上海ブギウギ1945―服部良一の冒険

服部家の玄関には、メッテルに学んだリムスキー=コルサコフの「和声学実習」の原書が飾られていた、という話はとても重いと私は思っています。

[追記11/4]

そういえば服部良一が上海で李香蘭(山口淑子)と共演したコンサートの場面は、少し前の上戸彩主演のドラマでも再現されていたようですね。

李香蘭 [DVD]

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服部良一は、言うまでもなく戦後1950年代のヒットメーカー、お行儀の良い行進曲調の「青い山脈」もありますが、

[asin:B000VRRCYY:detail]

やっぱり笠置シズ子のブギウギ。黒沢明「酔いどれ天使」には、買い物ブギのヒットを受けた次の作品ジャングル・ブギを歌い踊り狂うシーンあり。

酔いどれ天使<普及版> [DVD]

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[11/4の追記おわり]

服部良一は、60年代には香港ミュージカル映画の仕事に力を入れていて、70年代にはオーケストラ曲を書いています。

香港ノクターン [DVD]

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ところで、朝比奈隆は上海から日本へ戻るときに、オーケストラの外国人奏者たちからショスタコーヴィチの交響曲第7番のスコアを贈られたそうですが、これは明らかに「反戦・反ナチ」の意思表示ですよね。朝比奈隆が楽員から仲間として信頼されていた証拠とも解釈可能なエピソードだと思うのですが、朝比奈さん本人はそのことをわかっていたのでしょうか、あとでわかったのでしょうか、それともこの曲のそうした意味合いについては最後までよくわかっていなかったのでしょうか。この曲を生涯一度も指揮することはなかったそうですが、前からちょっと気になっています。

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

1.1.3. 中丸美繪さんの戦前大阪の描写について

[追記11/2]

中丸さんの本では、服部良一の音楽活動の原点、出雲屋少年音楽隊が「料理屋の余興バンド」(73頁)と記されています。東京の三越少年音楽隊は正式名称が記されるのに、こちらは正式名を出していません。何故?

(補足11/4:たしかに、出雲屋の少年音楽隊は短期間で解散して、一過性の「人寄せ」で終わったらしく、もしかすると、朝比奈さん自身が中丸さんにこういう言い方をしたのかもしれませんが……。)

そして朝比奈が阪急時代に異動を命じられそうになった宝塚の交響楽団(ラスカの指揮でブルックナーの交響曲の日本初演なども果たした)は、「温泉場の余興」の「少女たちのオーケストラ」(87頁)。

(補足11/4:宝塚のオーケストラは、当初1923年頃には、歌劇団の女の子たちに楽器を演奏させていたようです。しかし次第に専属メンバーが増えて、少なくとも朝比奈隆が阪急に勤めていた1930年代のメンバーは「少女たち」ではなかったと思われます。朝比奈隆がラスカによるブルックナーの交響曲第1番の演奏を酷評する文章が残っているそうで、朝比奈はこの楽団を評価しなかったようなので、もしかすると、朝比奈さん自身が中丸さんにこういうネガティヴな説明をしたのかもしれませんが……。)

朝比奈の指揮者下積み時代、芦屋出身で1歳年下の貴志康一は、既に「早世しなかったら大阪の楽壇地図は塗り替えられていたかもしれない」存在であったとされ(107頁)、大阪放送局所属合唱団の専任指揮者は、朝比奈ではなく、ボストン、パリから帰った神戸出身で1歳(or2歳)年上の大澤壽人(106頁)。一方、当時の朝比奈は、先に引用したように「どぶ川の街」で良家の子女のピアニストを次々ナンパする怪しげな人物として描かれます。

ここは本当に印象的な場面ですし、一面の真実を付いているであろう面白い箇所です。

そして先の「料理屋の余興」「温泉場の余興」という言い方は、事実がどうであったかというよりも、こうした朝比奈の下積みの悲哀の背景を、いかにも関西、「(東京とは違う)ワンダーランド」として描く演出になってしまっているように思われます。(どぶ川、料理屋、温泉場……戦前大阪が舞台のテレビドラマにありがちな絵が浮かびます。)

こういう細部の描写が、朝比奈隆の生涯を「貴種流離譚」の物語の型にハメる全体構想を支えているのだと思います。ノンフィクション・ライターにとって毒でもあり媚薬でもある「物語化の誘惑」に著者はかなり積極的にコミットしている(調べればすぐにわかる「出雲屋少年音楽隊」という固有名詞を退けるほどの勢いで)と言えそうです。

1.1.4. 大澤壽人と貴志康一

補足:それから、大澤壽人の研究や作品の発掘はまだこれからですが、貴志康一については、毛利眞人さんの詳細な評伝があります。

思い立ったらすぐに動く行動力と、いかにも阪神間・山の手モダニズムと言うしかない大胆な和洋折衷。彼自身の足跡については、かなりのことがわかってきていると思います。

貴志康一 永遠の青年音楽家

貴志康一 永遠の青年音楽家

ただし、大阪は貴志康一の生前既に(一時は「東洋一の人口」を誇ったほどの)大都市であって、個人の才覚と行動力と資金だけでは、芦屋市(芦屋村)の人気者になるだけならともかく、「大阪の楽壇地図は塗り替え」られないと思います。戦後の朝比奈隆がそうであったように、大阪で安定した活動を続けるには、何らかの組織、いわばインフラが必要でしょう。貴志康一が「前途有望」だったかを論じるためには、作品や活動の善し悪しだけでなく、彼の活動をいわゆる「アート・マネジメント論」的な視点で検証する必要があると思います。(私見では、貴志康一よりも、大阪中央放送局(JOBK)や戦後のABC朝日放送という放送メディアとの結びつきを確保した大澤壽人のほうが、将来、持続的に活動する可能性は高かっただろうと思っています。)

[補足ならびに追記おわり]

1.1.5. 映画とその音楽について

[11/3さらに補足]

もはや中丸さんの評伝とはほとんど関係ない話に再び逸れてしまいますが、ついでに大澤壽人と貴志康一について、もう少し書きます。

貴志康一の行動力・企画力の証として、彼が一時期、映画に凝ったということ、そしてそこではかなり「前衛的な手法」が使われていることがしばしば指摘されるようです。残念ながら、私はまだ、その「前衛的な」作品を観ていないのですが、ただ、こういう論調には先験的に疑念があります。

映画というのは、壁に写真の影を絶え間なく投影しつづける「高速パラパラマンガ」ですよね。生まれながらにインチキで(←けなしているのではありません)、これをリアルだと思うことに無理がある、20世紀の夢の形だと思うのです。映画では、「前衛的/アナーキー」であるほうが、「リアリズム」より簡単なのではないかという気がします(編集やフィルム処理の機材とお金さえあれば)。だって、誕生からあっという間に特撮の元祖、メリエス「月世界旅行」に到達しているのですから……。

貴志康一の「前衛映画」も、そういう「映画の罠」に陥っているのではないか、簡単なことをスゴイと思いこんでしまっているのではないか、という不安を覚えます。

それから映画音楽にも同じようなことが言えて、映画の音が「前衛性」という作曲業界の基準で語られているのを読むと、私は、オペラを「正しい歌唱法」という東京芸大基準で語るのと同じくらい狭量な議論だなあと思ってしまいます。

ちょっとやそっとの「前衛」「実験」では、映画はビクともしない。たとえば大澤壽人が音楽を担当した「夜の女たち」における、タイトルバックのベートーヴェン「運命」のパロディやラストシーンのテープ編集音楽。

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あるいは、黛敏郎による「赤線地帯」の電子音楽風の効果音。

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こういうのは、映画としてなんだか上滑りしていると思ってしまいます。頭で考えれば何故そういう風にしたのか「理解」はできるけれど、いかにも「考えオチ」という印象。

佐藤勝の助手として武満徹が映画音楽を手がけた最初とされる「狂った果実」の場合は、音楽がちゃんと「絵」を観て、それに対応している。こっちのほうが、よっぽど「活動写真」的ではないかと思ってしまうのです。北原三枝の魅力にハワイアン・ギターが思わず「キュィーン」と反応するというアイデア。男の子の性の目覚め、ガキっぽいシーンではありますが……。

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(戦後日本映画で、前衛・実験音楽的な音は、しばしば性や官能のシーンで使われているようです。まるで「性表現の解放」と「十二半音階からの解放」がパラレルであるかのようです。でも、男女の機微には、そういういわば「中二病」的前衛・実験手法が合うケースと、合わないケースがある。娼婦もの・赤線ものに対して、大澤、黛のモダニズムは「青臭い」感じ。一方、武満の音は、石原兄弟=湘南の太陽族に結構ハマる。そういうことも言えそうです。ただ溝口健二の映画のなかで、この2つの作品は本当に成功作なのか、という疑問もちょっとあります。廃止直前の赤線ものとしては、川島雄三監督「洲崎パラダイス 赤信号」、赤信号(赤線地帯)に限りなく接近しながら中に入らない(戻らない)カップルのほうが個人的にはずっと面白かったです……。)

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以上、再び大幅な脱線ですが、でも、映画とその音楽というのは、かように「戦前のハイカラなモダニズム」や「戦後前衛音楽の展開」といったクラシック系音楽家の内輪話をのみこんでしまう、ずっと大きな領野だと思うわけです。そう考えたときに、私財を投じて自主製作映画をやった貴志康一、京都の撮影所で結構な量の仕事をしていた大澤壽人、自分ではあまりかかわっていないけれど、戦後の一時期、自分の楽団、関西交響楽団が京都の撮影所の録音を一手に引き受けていた朝比奈隆(ただし溝口作品などを担当した早坂文雄は関西の楽団を信用しておらず、ソロ奏者を東宝から京都へ招いて音入れした、との話もあるようですが)は、それぞれ、どれくらいの存在だったのか。これは、一度誰かが、巨視的な見取り図を描きつつ整理しないといけないことだろうと思います。

黒澤明と早坂文雄―風のように侍は

黒澤明と早坂文雄―風のように侍は

関響は本当に大量の映画に関わったようですが、ヴェネチア映画祭で賞を受けた黒沢明「羅生門」には、珍しく(?)「関西交響楽団」がちゃんとクレジットされています。

羅生門 [DVD]

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[さらに補足おわり]

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1.2. 戦後:関西交響楽団の設立

命からがら満州から帰ってきた朝比奈隆が関西交響楽団(現・大フィル)を立ち上げるに至った経緯はどのようなものだったのか。当事者への豊富な取材をもとにまとめた奥村武司さんの著作は、中丸さんの本にも引用されていて、現在も入手可能。

ミューズは大阪弁でやって来た

ミューズは大阪弁でやって来た

書名は「コテコテの大阪」を売り出す吉本興業など大阪の芸能本のノリを予感させるかもしれませんが、大阪芸大で音楽学を学んだ著者が資料・取材できっちり裏を取っている本格ルポルタージュ。ミューズは大阪弁ですが、地の文章は端正な標準語です(笑)。

読み比べると、NHKとの確執などをめぐる中丸さんの記述は奥村本のダイジェストのような感じですね。中丸さんの本には、内容を圧縮しているような箇所もあるので、奥村さんの本をあわせて読むのがいい、と思います。(戦時中の若々しく「イケメン」な国民服姿の朝比奈隆の写真なども収録されていて、読み応えがあります。)

ちなみに、中丸さんの本では、終戦後の朝比奈隆と、のちの関西交響楽団を支える人たちとの再会の舞台、大阪倶楽部が「朝日会館にある社交クラブ」(151頁)と紹介されていて、この記述は、奥村さんの記述「朝日会館(北区中之島)三階にあった大阪財界の社交クラブ・大阪倶楽部」(12頁)に由来すると思われるのですが、大阪倶楽部が朝日会館を間借りしていたのはGHQ占領期だけで、それ以前、およびそれ以後現在まで、大阪倶楽部は、1923年竣工の自前の本来の建物で運営されています。(http://www.osaka-club.or.jp/gaiyo/index.html

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1.3. 1975年:大フィル欧州演奏旅行

大フィルの歴史のなかで、1975年のヨーロッパ演奏旅行は募金活動が社会現象にもなった大事業。綿密に関係者を取材した「半公式記録」な労作、渡辺佐「聖フロリアンの風」(第一法規出版、1977年)が現在、絶版なのは本当に残念な気がします。

ブルックナーの交響曲第7番をリンツの聖フロリアン教会で演奏した話は音楽ファンの間で有名ですが、ヨーロッパ行きが実現するまでのいきさつも波瀾万丈で本当にドラマチック。

公害問題で工場の近隣住民の市民運動が各地で起きたりした当時の雰囲気を私自身、子供の目でリアルタイムで見聞きしていたせいか、「大フィルをヨーロッパへ送る会」への市民の募金が積もり積もって大変な額になったというエピソードは、朝比奈・大フィルの歴史のなかで、私が一番好きな場面です。

ブルックナー:交響曲第7番

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大フィルを聴くためにブルックナー学者のノヴァークがリンツの聖フロリアン教会までやって来たのはどういう経緯だったのか。自発的にチケットを買って……とはちょっと考えにくいので、誰が彼を誘ったのか、以前から疑問だったのですが、最近聞いた話では、大フィルをドイツで引き受けたマネージャーが招待したのではないか、ということでした。大フィル関係者は、本人が演奏後に楽屋へ来るまで、その場にノヴァークがいるとは知らなかったそうです。

1.4. 朝比奈隆とブルックナー

[以下11/5追記]

朝比奈さんがフレンチ・シェフの格好をして、例の高い帽子を被って笑っている写真が残っています。(本に収録されていたのを見た記憶があるのですが、どの本だったか、今ちょっと探し出せていません、晩年or没後に出たたくさんの本のひとつだったと思います。)

あれは、「オーケストラがやって来た」を大阪の高槻市で公開録画したときで、司会は石井真木(山本直純は謹慎中)だったので1978年頃ではないかと思います。

音楽をフルコースのディナーに喩えてみようという企画。オードブルはヴィヴァルディ……とアシスタントのあべ静江さんが舞台上の巨大なお品書きを順にめくりながら進行して、メイン・ディッシュのビーフ・ステーキはブルックナー、というような内容だったと記憶しています。(当時、私は高槻在住で、母が観覧希望に応募して、観に行ったのでした。)

朝比奈といえばベートーヴェンとブルックナーということだったのでしょう。

「聖フロリアンの風」には、ヨーロッパでの大フィルの演目から当初予定されたマーラーが消えて、メインがブルックナーに絞られていく過程が書かれています。NHKの放送文化賞を受けたり、この頃の大フィル東京公演が素晴らしかったとする文章も見かけます。以前から取り上げていたとはいえ、「朝比奈=ブルックナー」のイメージが広まるのは、ひょっとするとこの頃からだったのだろうか、と漠然と思っています。

収録は二本撮りで、もうひとつは、年末最後の放送用に「第九」終楽章をノーカットで演奏するというものでした。この頃には(この頃から)、朝比奈さんは、毎週日曜朝のテレビ番組で一年のトリに出てきておかしくない存在になっていたのですね。(わたくしの「朝比奈体験(?)」は、既にそういう風になったところから始まっているわけで、直接的には、長いご経歴の一番最後のところしか知らないわけです。)

1953年に朝比奈隆がフランクフルトのホテルでフルトヴェングラーに会って、ブルックナー(9番)は「Original-Fassung」でやれ、と言われたという有名な話について、中丸さんの本には、あれは「海賊版では困る」という意味だろう、とする大フィル事務局長、小野寺さんのコメントが紹介されています。

フルトヴェングラーのアドヴァイスは、パート譜の写譜をやり直すことになって、当時、関響で写譜係をしていた(まだ作曲家デビューを果たす前の)大栗裕が四苦八苦、という個人的に無関心でいられないエピソードにもつながっていくのですが……。(たしかに大栗裕の書く楽譜は、どれも本当にきれいで読みやすいです。日本の作曲家の作品はなかなか出版されませんし、演奏者に信用してもらわないと弾いてもらえませんから、楽譜がきれいで読みやすい、というのは、作曲家としてやっていく上で意外に大事なポイントだったのではないか、という気がします。これは余談。)

朝比奈・大フィルの1975年ヨーロッパでのハース版使用は、ノヴァーク臨席を知らずにやったことだったらしい(前述)、ということもあわせて考えると、朝比奈さんのブルックナーへの接し方は、最近の(ひょっとすると日本固有かもしれない)マニアックで詳細な版と指揮者解釈の「仮想データベース」に照らしてブルックナーを語るやり方とは、随分違うところからはじまっていたのだな、と改めて思います。

ブルックナー/マーラー事典  (全作品解説事典)

ブルックナー/マーラー事典 (全作品解説事典)

[11/5追記おわり]

2. 中丸美繪『杉村春子 女優として、女として』をめぐって

2.1. 中丸姉妹と杉村春子、ジュリエッタ・シミオナート

ここからは、中丸さんの前著、杉村春子伝に関連することを書きます。杉村春子伝は、当時ハワイ在住だった「知られざる恋人」を見つけ出したというだけではなく、読み応えのある評伝だと感心させられましたし、少なくとも私にとっては、朝比奈隆とつなげて考えたい本なのです。

杉村春子 女優として、女として (文春文庫)

杉村春子 女優として、女として (文春文庫)

杉村春子が三浦環に憧れて東京音楽学校を目指していたのは有名な話。山田耕筰「黒船」初演に杉村春子が抜擢された背景については片山杜秀さんが「音盤博物誌」で素晴らしい文章を書いていますし、

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

(中丸さんの本には出て来ませんが)杉村春子は1956年にNHKイタリア歌劇団公演を観ていて、『音楽之友』の座談会に出席。ジュリエッタ・シミオナートについて、役者の眼で興味深い発言を色々しています。

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そして中丸さんの妹、三千繪さんはのちにイタリアでシミオナートに出会っているんですよね……。

カルメンの白いスカーフ

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トスカの接吻 [DVD]

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2.2. 杉村春子が観たイタリア歌劇団(1956)のシミオナート

やや話が脱線しますが、以下、シミオナート来日の意味について、当時の日本のオペラ状況を振り返りつつ少し書きます。

戦前のNHKの放送オペラや藤原歌劇団の演出をしていた堀内敬三は、「カルーソーも棒立ちの大根役者だったんだから、オペラは歌をちゃんとやればいい」と言って歌手たちを励ましたようです。

「音楽の泉」の人

「音楽の泉」の人

畑中良輔も、戦後、二期会歌手と関西歌劇団歌手の合同座談会で、こんな発言をしています。「イタリアの歌手は棒立ち」という漠然としたイメージが、当時の歌手たちの間には相当に広まっていたのでしょう。

畑中 それはやはり世界に二つの流れがあるんじやないですか。イタリア的なものはあくまでも歌が主で、私は行つたことないのですけれども、話に聞けば、イタリアのオペラ歌手は大根で、ただ歌つている。ドイツのオペラはあくまでも演劇的な完璧性というものと音楽性とほんとうに融合されている。

(「東西声楽家座談会」、『音楽之友』1955年7月号、165-172頁)

「正しい歌唱法」で日本のオペラの第二期を開く、という東京音楽学校出身者による二期会設立(1952年)も、少なくとも設立当初の理念は、「イタリアのオペラは歌重視」というのが前提であったように思われます。

この立場からすると、当時の朝比奈隆率いる関西歌劇団の歌舞伎演出家、武智鉄二を巻き込む演劇路線は、「満足に歌えない連中が芝居にかまける邪道」ということになりそうです(実際、1956年の東京公演はそんな風に批評されました。関西歌劇団の武智鉄二時代の活動については、拙稿「赤い陣羽織」解説もご参照ください)。

一方、新国劇→浅草オペラ→藤原歌劇団と舞台一筋の旧世代、「藤原ぶし」と言われた大スター藤原義江は、「正しい歌唱法」路線をこんな風に揶揄しています。

それからオペラ歌手とは、オペラ役者でなければならぬ。これはいくら教育されても、どうにもならぬ問題である。先天的に「オペラ役者」としての素質がなければ、オペラは出来ないのである。勉強で得られるものではない。近頃、オペラの舞台で、立派に、清潔に歌える人が多くなつたが、楽しませ、興奮させてきかせる歌手が殆んどいない。
僕に云わせれば口はばつたいようだが今、わが国で歌つているオペラ歌手の三分の二は職業の選択を誤つている。この人が若し先生をやつていたら、または、あの人が若しリードを歌つていたらきつと立派に成功しただろうに、と思える人が、オペラを歌つている。これでは、いいオペラが出来る筈がない。
(「オペラは何故もうからぬ?」、『音楽之友』1959年7月号、63頁)

1950年代の日本のオペラ関係者は、「東京芸大vs浅草以来の民間派」、「旧世代vs新世代」、「東京vs関西」といった諸対立を内包しつつ、「オペラは歌か芝居か」という原則論で角突き合わせていたわけです。

ところが、NHKイタリア歌劇団のシミオナートは、声も演技も一級品。「アイーダ」の王女アムネリスと「フィガロ」のケルビーノを演じ分ける様子が全国にテレビ中継されました。歌舞伎好きの谷崎潤一郎は「アイーダ」のシミオナートを見て、一時は「もう歌舞伎はいらない」と言っていたそうですし、毒舌の演出家、武智鉄二もシミオナートを絶讃します。

シミオナートは世界最高の名優だと思う。オペラ歌手としては……というような、条件つきの名優ではなく、演劇もバレエも、すべての舞台芸術を通して、第一級に位する大女優なのである。私は彼女の芸品の中に、六代目菊五郎に匹敵するものを見出す。シミオナートの『アイーダ』を見て、谷崎潤一郎先生は、「歌舞伎よりもおもしろい……もう歌舞伎を見る気がしない」という意味の感想をもらされたが、私もまつたく同感である。
(『音楽之友』1959年12月号、50頁)

シミオナートの舞台、歌も芝居もできる「役者」を目撃してしまったということは、日本のオペラ関係者の「コップの中の争い」の底を抜くことになってもおかしくない事件だったようなのです。

杉村春子は、中丸さんの評伝で、芝居をジャンルの隔てなくとらえることのできた人とされています。本来が歌手志望で芝居の本質を見抜く杉村のような人が、日本のオペラの転換期に居合わせたのは、とても興味深い歴史の巡り合わせだと私は思っています。

中丸さんが、斉藤秀雄伝の取材で朝比奈隆に最初に会った日、朝比奈さんは「こんな面白い人がいる」と武智鉄二のことを話したそうですが、杉村春子と朝比奈隆/武智鉄二は、同じ時代の同じ空気のなかで芝居をやっていたのだと思います。杉村春子と朝比奈隆/武智鉄二は縁もゆかりもないようですが、その間にイタリア歌劇団/シミオナートという補助線を引くと、俄然すごく面白い組み合わせになると私は思っているのです。

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2.3. シミオナート来日頃の日本オペラ界、二期会とは?

[11/2さらに追記]

もうちょっとこの話を補足します。

吉田秀和は、欧米視察(1953-54年)から帰国した翌年、歌劇「修禅寺物語」をめぐる合評座談会の席上で、技術論に終始する他の参加者に苛立つかのように、こんなことを言っています。

吉田 ところでオペラというものを考え直してみると、実は人間が出て来なくつちやならない。舞台に肉体をもつた人間の姿があつたときに、目に訴えて来る何物かがあるということは、やはりオペラの本質から取り除くことはないだろう。そして古来の名作オペラというのは、ワグナーにしても、モーツァルトにしても、何と言つても舞台の上で人間が歩き廻る。歌つて動いているということが魅力なんですよ。理屈はいろいろ立つけれども、オペラというものはそういうものです。それがちよつと日本ではまだ余り掴まつていないと思う。
(「座談会 修禅寺物語と創作オペラ」、『音楽芸術』1955年4月号、42頁)

そしてイタリア歌劇団をめぐる座談会では、柴田睦陸が「期待した程ではなかった」と言うのに対して、上とほぼ同様の主張を繰り返します。

吉田 オペラを見るということはどういうことかというと、それは要するに、歌うために人間が舞台に立つているんじやなくて、まず人間がいて、その人間たちが舞台の上で生きていた。つまり劇的な必然性で歌つていたわけだね。たまたま今度はイタリーの歌手たちが来て、イタリーのオペラをやつた。柴田さんの仰有るように、もつとうまいオペラもあるはずだということも分るけれども、でもあれは、とにかくもちやんとオペラになつてるんでね。
(「イタリア・オペラをめぐって」、『音楽芸術』1956年12月号、40頁)

吉田秀和の認識は、ほぼ谷崎、武智、杉村といった演劇関係者と話が通じる地点にあると言えそうです。(実際、この座談会の半年前、『音楽芸術』1956年3月号、創作オペラに関する団伊玖磨、武智鉄二、戸田邦雄、戸板康二、吉田秀和の座談会では、音楽劇をめぐってとても興味深い議論が展開されています。)

ところが、二期会の柴田睦陸は同じ座談会でこんな風に主張します。

柴田 「トスカ」のバルトリルさんでも何というか一寸したとちりで生地が出ても、そこはやはりイタリー人ですからね。それが日本人の場合だと「パッ」とした瞬間にはどうしても日本人が出てしまい、劇は中断されるのだから、そういうことがないだけでもあの人達の場合生々とするのがあたり前だと思う。
吉田 それよりも問題は、黙つていたら日本人になる人がイタリー・オペラをやるのはどういうわけか。考え直す必要がある。
柴田 いや、考え直す必要はないと思う。
吉田 イタリー人になつちやうの?
柴田 イタリー人や、ドイツ人になることじやなくて、結局そういうものを経験することによつて、これから行き着く理想までにある中途の階段をふむことだと思うんです。
吉田 それはオペラというものを自分の身体を通じて知るための階段だということ?
柴田 でも、イタリー・オペラをマスターするということは究極ではないと思うが、まず途中でドキンとしないようになりたい。
(「イタリア・オペラをめぐって」、『音楽芸術』1956年12月号、44頁)

そして、やや吉田秀和の誘導に乗せられている感じはありますが、この話題に加わってきた指揮者の森正はこんなことを言ってしまっています。

柴田 イタリー・オペラにしてもドイツのリードにしても、或はフランスの歌をどんなに歌つても、ドイツ人のドイツ・リードのように、フランス人のシャンソンのようには歌えないと思いますよ、日本人は。だけれども……。
森 相当近くまではいけるかも知れないね。
柴田 結局越えることのできない線が厳としてあるわけです。それがオペラなどになつてくると一人ではないから、それこそ大変大きいと思います。結局イタリー人がやるようなイタリー・オペラをねらつているのじや、自分のオペラもできないと思うんです。
森 だけれども僕たち演奏家というのは、まず学ぶことは模倣することから始めるわけですね。[…中略…]真似するからには紙一重の差という以上にできれば、イタリー人よりももつとイタリーくさいイタリー・オペラをやるところまで真似したいと僕は思つている。だから本物を見せてもらつたのだから、ますます一生懸命に……。
吉田 前よりも上手に真似して……。
森 上手に広く深く真似したいと思う。
(「イタリア・オペラをめぐって」、『音楽芸術』1956年12月号、44-45頁)

二期会の人々は、NHKイタリア歌劇団公演を観て、「オペラは芝居だ」という風にオペラをめぐる議論のパラダイムを転換するのではなくて、「イタリア人よりイタリア人らしくなりたい」、「あの人たちと同じになりたい」という風に、従来の路線の延長でますます西洋崇拝を強めていったようなのです。このあたりが、その後の日本のオペラ運動の(もしかしたら現在まで尾を引いているかもしれない)特異なあり方の原点ではないかという気がします。

岡田暁生さんは、「ドイツ音楽からの脱出? -- 戦前日本におけるフランス音楽受容の幾つかのモード」(宇佐美斉編『日仏交感の近代』京都大学学術出版会、2006年)で、戸田邦雄の言葉を引用したうえで、

[東京音楽学校の作曲科開設がかくも遅れたのは]邦楽が演奏中心であり、家元制度であったため、[洋楽受容においても]「音楽家」というのは「演奏家」のことであり、「洋楽家」とは「西洋の名曲を演奏する人」のことであり、この場合の「大家元」はヨーロッパであるというような思考法が暗々裡にはたらいていたからであろう。現在でも、一般大衆のもっている観念はこれに近いといってよい。(371頁)

「邦楽では「一人前にならないうちに創作などするのはもってのほか」という考え方が強いことは言うまでもないが、これと同じ発想が西洋音楽受容にも持ち込まれたらしい」と推測しています。

(作曲に着手した人たちの間でも「大家元としてのヨーロッパ」を規範とする意識は強烈だったのでしょうか。昨年話題になった「浜辺の歌」の作曲家、成田為三の戦時中のピアノ・ソナタは、ブラームス以上にブラームス的ですね。)

成田為三:ピアノ曲全集

成田為三:ピアノ曲全集

戦前の東京音楽学校では、オペラなどまかりならん、ということだったようですが、卒業生が戦後オペラに乗り出すべく立ち上げた二期会に「イタリア人以上にイタリア人になりたい」症候群があったことは、「家元意識」と言われても仕方がないのではないかという気がします。「日本のオペラの第二期」は、日本の独自性の追求ではなく、イタリア・オペラの「免許皆伝」になることだったようなのです。(具体的に、どこまで精進すれば「免許皆伝」なのか、いまひとつ判然としないのですが……。)

そして現在、コンヴィチュニーを招いたりして、二期会はちょっと様子が変わっているようですが、これは「日本のオペラの第二期」が終わり、いわば「第三期」に入ったということなのか。それとも、今なお「家元としてのヨーロッパ」の最新動向に付き従っているということなのか。あるいは、80年代あたりで、もうとっくに「第二期」は終わったことになっていて、東京はポストモダンでデータベース消費の情報化社会なのだから、みんな記憶を失い「動物化」して、白々とどこまでも続く現在に萌えてハッピーなのか。詳しい方、どなたかご教示ください。

[さらに追記おわり]