ブルックナーのユニゾン:ひとつに重なることはそれほど感動的なのだろうか?

それぞれの団体やマネジメントが別個に計画したコンサートのスケジュールをグローバルな情報社会にふさわしくカレンダー上にマージすると、この週末のこの島はブルックナーの交響曲第5番を3〜4種類の演奏で聴くことができる特別な期間であったらしい。

私は、偶然の一致に特別な意味を見いだすのはギャンブルもしくは占いでしかないと思うのでほとんど心は躍りませんが、実際に聴くと、ブルックナーがユニゾンもしくはオクターヴを音楽における「一者」すなわち「神」だと見定めて、「ユニゾン教」の信条告白として巨大なフーガを書いたんだろうなあ、ということまではわかった気がする。

それはつまり、ひとりの男がすべてぴったり重なるように意図的に仕組んだのだから、偶然の一致よりも、さらに心が躍る度合いは低いような気がしないではないですが……。

(先行する主題もしくはユニットと後続の主題もしくはユニットを「同一音」でつなぐのは、事故が起きないようにオペラのオーケストラが声にきっかけを与えるときの常套手段で、これをワーグナーが誇大妄想風の自らの音楽劇に活用して、ワーグナーに心酔したブルックナーがシンフォニーに取り入れたと推測できるので、劇場の手法をコンサートのオーケストラに導入した点では、チャイコフスキーがイタリア・オペラに似たオクターヴのユニゾンでメロディーを太く歌わせるのと発想は大して違わない気がしないでもない。19世紀末のシンフォニーでは、世俗的(チャイコフスキー)であれ宗教的(ブルックナー)であれ、私的な告白・宣言を作品で行うときには劇場の手法を借りるしかなかったということだと思う。

私は、ユニゾン/オクターヴによる「一致」「重なり」にこだわるこの種の人たちよりも、3度や6度でふくらみをもたせようとするチェコのドヴォルザークやマーラーのほうがどちらかといえば好きかもしれない。)

グローバルな情報化社会の「机上の空論」ならぬ「データベース上の空論」ではないかと思えてならない「ブル5な週末」とは別に、昨日はいずみホールで大フーガを聴いて、そのあと大急ぎで福知山線に乗り、伊丹(岡田暁生の父の実家の造り酒屋があった街だ)で行われた関西学院大学マンドリンクラブ創部100周年記念演奏会で大栗裕(アルテスの本では「小倉裕」と誤記されてしまったが(怒))の「ナイチンゲールとバラ」&「土偶」を聴いた。

(関学のマンドリンのコンサートは必ず「神とも」で終わる。ICUの卒業生が愛してやまないリンツのオルガン奏者の交響曲とは別の形で、ここでもキリスト教と音楽が関わっている。)

私個人としては、そのながれでブルックナーを聴いたので、

  • ブルックナーの5番とベートーヴェンの大フーガ(それなりにつながりが感じられますよね?)

とか、

  • ブルックナーの5番と大栗裕(朝比奈隆は1954年にフランクフルトのホテルのロビーでフルトヴェングラーから「ブルックナーをやれ」と言われて帰国後早速5番に挑戦したとされるが、そのとき、関西交響楽団の楽譜係だった大栗裕がスコアから写譜してパート譜を準備したらしい)

とかといった別の文脈が不意にせり上がったように思われ、それなりにイベント感のある週末でした。

柴田南雄 音楽会の手帖

柴田南雄 音楽会の手帖

ここに朝比奈隆・大阪フィル東京公演のマーラー6番の新聞評が収録されているが、朝比奈隆はある時期まで、ブルックナーもマーラーもどちらも同じように振っていた。

さらに極私的なことを言えば、高関健・京響のブルックナーを北山で聴いて、京都駅で地下鉄からJRに乗り換えるときにこういうスクショを撮れたのが、なによりも「イベント」に参加した実感のある出来事でした。

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通称「さる寺」だそうです。