ヨーロッパの民族音楽としてのピアノ音楽

鍵盤音楽史の授業でシューベルトの話をする回になって、恩師谷村晃が阪大の授業(「行進曲と子守歌」という題目の特殊講義だったかと思う)で使っていたバドゥラ=スコダとデームスの軍隊行進曲のレコード音源をネットで探したり、最近ではラ・フォル・ジュルネでも何度か演奏されたらしいシューベルト/リストの「さすらい人幻想曲」のコンチェルト編曲を同じバドゥラ=スコダによるフォルテピアノの音源と比較できるようにCD-Rを準備したり、若き日のブレンデルが即興曲を弾いている映像を見つけ出したり、色々書き込みして製本がボロボロになっているウィーン原典版の舞曲やピアノ曲集の楽譜を引っ張り出したりしているうちに、四半世紀前に封印した包みを開く気分になりつつある。

当時面白いと思っていたものをこうして改めて並べてみると、どうやら阪大の院生だった頃の私は、周りの先輩たちや山口修先生のことを意識しながら、シューベルトのピアノ音楽をヨーロッパの民族音楽として説明できるためには何が要るか、自分なりに考えていた形跡がある。

足りないもの・わからないことが多すぎるし、その後、阪大に渡辺裕がやってきて、「民族音楽としての西洋音楽」から「音楽における近代化とポストモダン」へと周囲の議論のモードはあっという間に変わってしまったから、そういう遠大な計画は途中で放棄・中断してしまったわけだが、その後考え続けたことを足し会わせると、ぐるりと一周して、「民族音楽としてのピアノ音楽」でいいんじゃないか、という気になりつつある。

(堀朋平の本を読むと、長年の疑問が色々解けて、学問は四半世紀で先に進んだなあと勉強になるが、彼には「それが所詮は19世紀ウィーンのエスノグラフィーである」という覚悟が足りない気がする。)

ピアノという楽器とその音楽の歴史は、「音楽の国」へのパスポートを得たい、という過去20年の若い人たちの性急ではあるけれども切実だったのであろう欲望が一段落したように見える今の状況では、ざっくり「民族誌」として記述しておけば十分なのかもしれない。そういう視点で話をして、「世の中はそんなに簡単にフラットに情報化されてしまうものではないかもしれないし、本当にそうしたいのであれば、これだけの課題がありますよ」と言ってあげるほうが、むしろ、1990年代半ばに生まれて、文化人類学が人文社会科学を席巻した時代のことなど何も知らない今の学生さんたちには、かえって刺激になるのではないか、と思っているのですが、どうなんでしょう?

「クラシック音楽はそのうち箏や三味線を伝承するのに似たものになるだろう」とは前から思って、そう言ってきましたが、21世紀の半ばくらいまで生きるであろう人たちは、具体的な準備を色々しておいていただいたほうがいいんじゃないかと思うんですよね。