飯森範親「ボクにはシェーンベルクはわかりません」(いずみシンフォニエッタ大阪第20回定期演奏会)

いずみシンフォニエッタ大阪がシェーンベルクの室内交響曲を演奏するというので、京都の大フィル特別公演(大植英次)を諦めてこちらに行きました。
酷い……。

飯森氏は、ポリフォニーを把握できない等、かなりはっきりした弱点がある指揮者だと思います(かつてのバッハ/シェーンベルク「リチェルカーレ」もいいかげんな演奏でしたし)。いずみシンフォニエッタの演奏会では、ときどき、度胸一発で指揮棒をそれらしく振り回すだけの「朝比奈隆流」になることがあります。よりによって、シェーンベルクの室内交響曲がそうなるとは予想できず、唖然としてしまいました。

(あれでは、懸命に演奏しているプレイヤーが可哀想です。演奏会全体としては、いずみシンフォニエッタ大阪、設立後数年の過剰に騒々しく慌ただしい感じが抜けて、20世紀の色々な音楽をシックに楽しめる良い雰囲気になってきているのに。)

かつて、昭和のオーケストラでは、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」や「春の祭典」は「止まらずに最後までたどりつけば万々歳」だった時代があったと聞きますが、そうした演奏はこういう感じだったのかな、と思ってしまい、客席にいるのがいたたまれない数十分でした。既にこの曲は初演から百年経っていますし、今更「最後まで通すだけで意義がある」とは言えないはず。指揮者は「僕にはシェーンベルクはわかりません」と正直に申告して、出演を辞退すべきだったのではないかと思いました。

たまたま演奏会の前に寄った書店で『総力戦と音楽文化』という本を見つけたのですが、

総力戦と音楽文化―音と声の戦争

総力戦と音楽文化―音と声の戦争

あとがきで、長木誠司さんが

音楽学における近・現代研究は、中間地帯がごっそり抜けていた。

と書いています。

例えば、一九七〇年代から八〇年代にかけて「マーラー・ルネサンス」というものがあった。戦後の音楽人は、アルノルト・シェーンベルクやアントン・ウェーベルンはよく知っていても、グスタフ・マーラーは過去の大仰な遺産として、なかなか真面目に取り組んでいなかった。現在からは、あまりピンとこない感覚だろう。

いまでは逆に、マーラーやその後継者というべきショスタコーヴィチが大人気です。そして今度は、シェーンベルクの表現主義から無調への歩みのほうが「過去の大仰な遺産として、なかなか真面目に取り組まれ」ない「中間地帯」として、「ごっそり抜けて」いる時代なのかもしれませんね。

マーラーの分裂症的・コラージュ的で、「つまみ食い」的に聴くことが可能な音楽から、戦間期のストラヴィンスキーや六人組の新古典主義を経て、ショスタコーヴィチの「二重言語」へ、という風にポストモダン趣味で20世紀を楽しむようになって、今度はシェーンベルクの表現主義的な無調(増音程や減音程で官能的に身をくねらせる極度に研ぎ澄まされた「相対音感」と、モチーフが徐々に姿を変えていくドイツ音楽の伝統的なロジックの交点で生じた化学反応)が「非主流派」に追いやられている時代。

シェーンベルクの歴史的な位置づけとしては、あまり大げさにそこに「歴史の必然」を見るのではなく、ひっそり脇役扱いでいいかもしれないとは思いますが、いずれにせよ、飯森という指揮者は、「相対音感のエロス」を聴き取る耳をもってはいなさそうですし、ドイツ風のロジックを根気強く追いかけるタイプではなさそう。向いていないのでしょう。

音楽業界はアニヴァーサリーがお好きなようですから、無調到達一〇〇年を記念した「アトナール2009」なんてどうでしょう。東京国際フォーラムを1週間借り切って、作品11や「ピエロ」を連日連夜、選りすぐりのスター・プレイヤーが演奏する。小ホールでは、シェーンベルクの「私的演奏会」全百数十回の完全再現上演。シュトイアマンやコリッシュの使用楽器や演奏様式を解析した「ピリオド・アプローチによる無調音楽」。そんな「シェーンベルク・ルネサンス」……。