水村美苗という人の「釣り」?(「日本語が亡びるとき」)

音楽とは直接関係がないのですが、水村美苗「日本語が亡びるとき」という本を読みました。

(11/16追記あり)

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

中身は、過不足なく仕上げられた「日本語論」になっておりました。

この人の書いた本は最初が「続・明暗」で次が「私小説」でその次が「本格小説」。(そういうジャンルの本を書いたのではなくて、そういうタイトルの本を出版しているのですよね。)

アメリカで過ごした少女時代に日本語を読み続けたという日本語フェチな作家さんで、近代国民文学の日本語、私小説の日本語、本格小説の日本語、というのを綴ってきて、今度は「日本論・日本語論」の日本語を綴ったということなのだろうと思います。(赤裸々な体験談と、オッサン臭のする強引な断定癖が無媒介でくっついている感じが、私には「評論文の日本語」の壮大なパロディに見えます。)

オーソン・ウェルズが「宇宙人が来た」という架空のニュースを流すラジオドラマを作ったら、本当のニュースだと思ってパニックが起きてしまった、という話がありますが、この「日本語論」に本気で感動している梅田望夫他の方々というのは、その21世紀版でものの見事に水村さんに「釣られた」ということなのでしょうか。それとも彼には深淵深慮があるのでしょうか……。(いずれにしても、今でも少なからず「釣られる」読者がいるだろうことを見越して書かれているところが、さすが「続・明暗」を書いた人というべきか、意地悪な本ではあるのかもしれません。)

ひとつ違いがあって、オーソン・ウェルズのほうは、2008年現在わたしたちの自然科学は「まだ」宇宙人の存在・飛来を確認できてはいないけれど、水村さんの日本論・日本語論のほうは、おそらくまともな文学者であれば「すでに亡びた賞味期限切れ」と判定するであろう言葉で綴られている、もう有効性を失っているソンビのような「批評の言葉」で綴られているということ。たぶん、書きたかったのでしょう。水村さんは、すでに死んでしまったものを愛する人なのでしょう。

それは別にいいのです。作家なのですから。

ただ、「すでに死んだ言葉」で綴られている「文学作品」が、情報社会の預言者役を期間限定で買って出た経歴をもつ人(今はもう文筆業を「引退」なさったらしいですが、そして彼のいわゆる「ウェブ進化」に対する「期間限定」の手の出し方は有望株に投資して暴落直前に売り抜けるサブプライム発覚以前に一般的であった投資家の態度そのものであるわけですが)によって、「21世紀の必読書」と言われて、そこからそれなりの波紋が広がる光景というのは、ちょっと気持ちが悪いかもしれないな、と思います。

とっくの昔に地上に飛来して、すでにひとしきり騒ぎを起こして、既に地上を去ってしまった宇宙人のことを、あたかも「これからやって来る大事件」であるかのように騒いでいるような感じがします。

反=日本語論 (ちくま文庫)

反=日本語論 (ちくま文庫)

[追記]その後、「文芸評論家」を職業としている人がこの本について、パロディとしてではなく大真面目に長い論評してしまう事態に発展していますが、こちらは不気味ですらなく、ちょっとがっかりでした。文学業界の「中の人」の、ネタにマジで反応してしまう傾向は、志賀直哉の「フランス語を国語にせよ」という発言が本気で批難の嵐を浴びた時代と、全然変わっていないのだな、と思いました。

(この「文芸評論家」さんの発言が、専門家による「鑑定」であるかのように受け止められて、騒動が収束してしまいかねない感じになっているのはさらに残念です。この「文芸評論家」さんがどの程度の人なのか、日本語論のパロディを書く人と、この「文芸評論家」さんと、どっちが面白い文章家であるか、それはそれで、別に議論があってもいいはず。)

「日本語が亡びるとき」という本は、パロディとしての出来がさほどではなく、「文学部・唯野教授」より劣るくらいかなと思います。ただ、こういう壮大なパロディのひとつくらい、作家なら書いてもおかしくないし、別にどうということのない文学の風景に過ぎないと私は思います。