コロニアルな風景

90年代の社会科学に熱病のように流行ったカルチュラル・スタディーズのおかげで、「○○の誕生」式の論文が音楽学では今も書かれ続けておりますが、もうひとつの90年代ファッションであったポストコロニアリズムのほうは、何故かあまり音楽学では顕在化していないようです。

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

遅ればせながら、先日ようやくスピヴァク「サバルタンは語ることができるか」を読みました。60年代の熱気を引きずっていた1970年代初頭のフーコーとドゥルーズの対談をポール・ド・マンのお弟子さんが1980年代の視点で批判する文章で、論の進め方には懐かしい既視感を覚えましたが……、

そして、以下、「主体的に語り得ないサバルタン」という議論より遥かに手前のお話になってしまいますが……、

阪神間山の手モダニズムを神戸居留地近傍に出現したコロニアルな風景と考えると貴志康一や大澤壽人の立ち位置がはっきりするかもしれない、と思いました。

貴志、大澤が生まれた明治末は条約改正で居留地は自治が撤廃され神戸市に編入された時期。これからは西洋人と「普通の関係、対等の関係」を結べると楽天的になり得たのでしょう。

神戸と居留地―多文化共生都市の原像 (のじぎく文庫)

神戸と居留地―多文化共生都市の原像 (のじぎく文庫)

一方、ヨーロッパ一筋、岡田暁生「音楽の聴き方」のギラギラした手触りも、著者はもともと伊丹の造り酒屋の家柄なのですから、京大文化人というより、阪神間山の手文化人の末裔かもしれません。

そしてこちらは、やや歪んだ経済一辺倒の立国で繁栄した戦後日本の「松田聖子世代」。どういう屈折によるのか、

「この宗主国の犬め!」

と言い切ってしまうと、かえってその特異なパーソナリティがはっきりするかもしれません。

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音楽学に「ポスコロ」がさほど広まらないのは、おそらくこの学問においては「文化植民地時代」への郷愁が今も“欲望”として枯渇しておらず、クラシック音楽には、「文化植民地」状況で商売を続けている“利害”があるからだ、ということになるのかもしれません。

そして「宗主国の犬」は、言葉で語ることの有用性を高らかに宣言し、このような日本のクラシック音楽を言葉で「表象(darstellenとしてのrepresent)」することによって、自らが日本のクラシック音楽を「代弁(vertretenとしてのrepresent)」する者となる。ここには、文化植民地ニッポンのクラシック音楽における凶悪な「表象=代行representation」がある。

「音楽の聴き方」を読み直してみると、南博さんのワルトシュタイン・ソナタをめぐる文章は、道化が同時に誘惑者であるようなカーニヴァル感覚と形容され、村上春樹のシューベルトをめぐる文章はストラヴィンスキーの新古典主義を思わせる、と評されています。

鼻白むとはこのことですが、クラシック音楽をめぐって21世紀に日本語で綴られたエッセイを「宗主国ヨーロッパ」から輸入した道化やネオクラシシズムといった(ちょっとレトロな)語彙で梱包して、これらのエッセイをコロニアルな文化居留地の風景として領有しようとするかのようです……。

(村上春樹は甲陽高校教師の息子で夙川に住む阪神間の子だったのですから、彼の文章が醸し出しているかもしれない「神戸の臭い」を音楽学の「宗主国の犬」がクンクン嗅ぎつけた、と言うべきなのかもしれませんが。)

ちょうど異国風の品々が並ぶ輸入雑貨店のように、あらゆる風物を「宗主国ヨーロッパ」の目線で読みかえること(あるいは至るところ「宗主国」の香りを嗅ぎつける忠犬ぶり)が、岡田氏の音楽をめぐる語り(の「型」)である、ということでしょうか。

これは、戯画的なまでにわかりやすい、卑屈な植民地エリートの思考様式ではないか。「音楽の聴き方」はハウツー本の体裁ですが、そのハウツーが目指すのは、ほぼ「居留地・文化植民地でのし上がる方法」だと言ってよい。

(以上、付け焼き刃で「ポスコロ」な口ぶりを試してみましたが、上手くいっているのやら。このような口ぶりですべてが片付くとは思いませんが、このような視点がありうる前提で考えていかなければならない世の中に、今はなりつつありそうなので、ひとまず手近な練習問題ということで。)

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追記、もう少し続けます。

「宗主国の犬」。……上海などを舞台にした映画には、しばしば、「宗主国」の威光を背負い、直輸入最新モードのスーツを身に纏って居留地を闊歩し、苦力(クーリー)をアゴでこき使う東洋人が出てきますが、あんな感じをわたくしはイメージしております。

(そういえば、岡田氏の周囲に、分け前が欲しい怪しげな人達が群がったり、こきつかわれて離れていった人達が絶えず(今も)往来しているようですし……。)

最終解脱目標としては、もしかすると、西欧近代詩に「永遠の故郷」を求める「鎌倉の翁」(武家幕府発祥地にお住まいのあの方が、かつて旧幕臣榎本武揚の最後の希望の地になった蝦夷(小樽ですが)で中学時代を過ごし、同地で、伊藤整から英語を習い、今は、新田の末裔を名乗っていた徳川の御三家旧水戸藩の地の館長なのは偶然なのか?)の境地が想定されているのかもしれませんが……、

ただ、おそらく一番の問題は、「宗主国ヨーロッパ」が本当に今も、宗主国然と七つの海に君臨しているのかどうか、ということではないかと思われます。(ポストコロニアリズムと呼ばれる思考は、そこを問うているはず。)

21世紀に入ってなお「宗主国の犬」であろうとする姿には、もはや「宗主国」との紐帯が切れたあとになっても、末端の現地組織が稼働し続けているかのような不気味さがあります。昆虫が頭をもぎとったあとでも手足をバタバタ動かし続けるように……。(そういえば19世紀末芸術には昆虫の意匠がしばしば用いられますが……。そしてヨーロッパからやって来た現役バリバリのピアニスト、エマールの何でもそれらしく弾いてしまうスタイルは、曲ごとに「ドビュッシーの頭」や「ベートーヴェンの頭」にすげ替えてしまえる、結果的には独自の「頭」がないも同然の「優秀な身体」で、ちょっと不気味。ヨーロッパもこうなったか、と思ってしまったのですが……。)

ただ、考えてみれば、この極東の日出ずる国は、中国の宮廷音楽が廃れたあと千年にわたって「雅楽」を伝承し続けているのですから、

「宗主国ヨーロッパ」から流れてきた風物が(頭をもぎとられた)「型」として幾久しく奉られる場所として、まことにふさわしいとも申せましょうか。

ビバ!居留地文化。音の輸入雑貨店フォーエバー、であります。

(それにしても……、

「頭」と「身体」の分離が岡田流音楽論の根底にあるらしいことを以前指摘しましたが、http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090913/p1

ひょっとするとそこには、世界中どこにいようと、肌の色が何色であろうとも、そこに「宗主国ヨーロッパの頭」(と彼が信じているもの)をちょこんと乗せればいい。逆にどんなに立派な「身体」であろうと、「頭」がヨーロッパでなければ人間とは認めない、という凶悪な発想が潜んでいたりするのでしょうか。)