松下眞一歿後20周年追悼演奏会、無事終了

[3/2 何カ所か()で記述を補いました。]

[9/14 東京公演の情報はこちら http://www.opus55.jp/index.php?ooi_concert ]

松下眞一歿後20周年追悼演奏会、無事終了しました。(京都市国際交流会館、2月27日(土)18:00開演、大井浩明(ピアノ)、宮本妥子(打楽器助演))

松下眞一の作品としては、初期の「可測な時間と位相的な時間」とスペクトラ全6曲が一挙上演されました。

スペクトラ第5番の図形楽譜はご遺族が新たにご提供くださったもので、今回が初演。6曲から成るスペクトラ第6番が通して演奏されたのも今回が初めてでした。

たまたま演奏会が実現するまでの経過におつきあいすることになりましたが、あちこちに伏流していた色々な人たちの意志がうまく組み合わさった結果がこの演奏会だったように思います。

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松下眞一は、正直言って、とってもややこしい人だと思います。

(1) 十二音・セリーから、偶然性を経て、東洋思想(仏教)へ分け入る、というように前衛運動の渦のど真ん中と目されるテーマに取り組み続けていて、

(→この段階で、一般の人からはスゴイけれど難しそうな人だと思われることになり、後世の人間にとっては、前衛音楽の全体像を視野に収めておかないと、松下眞一の位置を把握できなくなる……)

(2) しかも、そうした動向を極東の島で文物として輸入するのではなく、実際に60年代からヨーロッパに住んで、その経験を踏まえた発言をしていて、

(→ここから、日本国内でヨーロッパを遠くから眺めるしかない作曲家との潜在的な軋轢要因が発生、アメリカの影が色濃い戦後日本の空気感のなかでは「いつまでもドイツべったりかよ」という正しいのか正しくないのか判断が難しい反発も派生して事態が紛糾(しかもハンブルクではネオナチ物理学者の共同研究者という立場で、本人にもアーリア人礼讃的発言がありますし……)、後世の人間にとっては、ヨーロッパ楽壇のなかで彼が実際のところどの程度の存在だったのか、そもそも前衛音楽というのがヨーロッパでどの程度のメジャー度/マイナー度だったのかという詮索を含め、調査が面倒な課題が生じる……)

(3) なおかつ、数学者というもう一つの顔を隠すことなく音楽と結びつけて、

(→「数学と音楽」が西洋音楽でひとつの主題になりうることはわかっていても、しばしば「文系」である音楽関係者・音楽研究者で、松下眞一の研究領域に精通するほど数学・物理学を身につけた人がはたしているのか、これから出てくる可能性があるのかどうか……、逆に、数学・科学者で音楽好きなインテリの方々は少なくないでしょうけれども、そういう方々のご発言を音楽関係者は鵜呑みにするしかないのか……、「理系」だったら教養課程で必須らしいシュレディンガー方程式すら文系の我々はよくわかってないわけで……。

心理学や音響学との協同作業でしばしばそういうことが起きますが、自然科学者の発言に「所詮音楽なんて」と見くだしたような調子が含まれると音楽関係者は敏感に反発しますし、逆に、音楽家を過剰に持ち上げるような態度を取られると音楽関係者を変に調子づかせて後々まで禍根を残す。基幹システムとしての学歴社会システムからはじき出されたところで、裏口から欧米に直結した価値体系を築いてしまっている音楽が、表舞台の学問の花形であると自然科学と対話するのは、今の日本では、ヤクザと官僚が仲良くなるくらい難しそうです。そして今の日本で科学と音楽の間に対話を成立させるためには、ちょうど表社会と裏社会を取り持つのが一種の政治であるように、ある種の政治的振る舞いが必要になってしまっているように思います。(あるいは、癒しを含め、音楽に「効用」を立証しようとする似非科学。)

もちろん、世界の様々な文化・学問の有り様を見れば、数学と音楽、あるいは、科学と音楽には別の関わり方もあり得そうですし、松下眞一も、成功したかどこまで妥当であったかはともかく、当人に政治的立ち回りの意図はなさそうですが、数学者兼音楽家というポジションが日本の文脈では扱いの厄介な、一種の政治の領域に入り込んでしまった。そうした事情が彼の生前の一種華麗でありながら、正面切って評価するのが難しい経歴に影を落としているのではないでしょうか。)

(4) さらに70年代に入って前衛運動に翳りが見えると、愚痴も自慢話も真摯な発言も裏表なくごっちゃになった文章を書くようになって……。

(→そのせいなのか、ごく世俗的なレベルで松下眞一には「敵」が多かったらしいとの伝聞情報を複数耳にするのですが、その種の話は取り扱いが本当にややこしいものであり、松下氏が周囲から時には奇行と見られても仕方のないものを含めてマイペースな行動ぶりだったとの証言もあり……)

ひとつだけでも対処するのが大変なのに、松下眞一とつきあおうとすると、二重三重四重の障壁があり、大抵の人は怯んで遠巻きにしてしまうのも無理がない。

(そして東京の人にとっては、大阪(しかも茨木というよくわからない土地)の人ですから、さらに近寄りがたいかもしれませんね。そんな「よくわからない土地の人」なのに、松下眞一は、父親が旧制中学で川端康成と同級だったとか、自宅には新聞記者時代の井上靖が下宿していた、とか唐突に言い出すわけで……。茨木はそういう、探れば色々面白いことの出てきそうな大阪近郊の、かつて城下町でもあった村落なのです。ダテに、革新首長輩出の70年代をずっと自民党市長で通したわけではないのです(←意味不明か)。)

今回は、

(a) こうした音楽を怯むことなく弾くのは今ならこの人、と言ってよいだろう大井さんの演奏で、

(b) 全体のプロデューサーとして、九州大学数学科の松井先生の陣頭指揮で企画が進んで、数学者としての松下眞一について色々有益なご意見を伺うことができて、

(松井先生の文章はプログラム&大井さんのブログに公開されていますが、

http://ooipiano.exblog.jp/13734324/

ご覧いただけばわかるように、さすが科学者と頭の下がる冷静・公平な記述、こういう方に松下眞一を語っていただけて本当によかったと思いました。)

(c) ご遺族ならびに、地元茨木で生前の松下眞一とおつきあいのあった皆様(「野いばらの会」)のご協力を得ることができて、

(演奏会会場ロビーには、松下眞一の足跡を紹介する、野いばらの会作成のパネルが展示されました、展示の年譜は、生前に松下眞一自身が書いた履歴にもとづくそうです。)

(d) 松下眞一が学んだ旧制三高ゆかりの京都で、なおかつ、松下眞一が作ったとされる三高音楽部の流れを汲むことになるらしい京大音楽研究会(大井さんもここのご出身)の現役の皆様にも感心を持っていただけたかもしれない内容になっていて、

初の本格的な回顧演奏会としては、良い形だったのではないでしょうか。

(大井さんの企画力・行動力のお陰です。)

上記(1)から(3)については、何をどういう風に動かしていけば、松下眞一という作曲家にアプローチできるのか、筋道が見えてきたように思います。

残念ながら、上記(4)に関しましては……、

70年代以後に、松下眞一氏の裏表ないアケスケな発言などにリアルに接した方々が抱いていらっしゃるかもしれない複雑な思いを解きほぐすには、まだ時間や手順が必要なのかもしれませんが……、

とりあえず、今回、松下眞一のピアノ作品をまとめて聴いて、

彼の音楽は、(解読・演奏は途方もなく大変であるとはいえ)ご本人の著作の過剰に難解であったり、とっちらかっている印象ほどには散乱・錯綜していないように思いました。

むしろ、いかにもこの世代・この時代・この境遇だったら、こういう音を書く人がいても不思議はない。「なるほどそのパターンか」と了解可能なところに収まっているようです。

でも、先が読めてしまってすぐに飽きるわけでもない。

技術力で圧倒するわけでもなく、全体をガッチリ組み立てているわけでもない。論文というよりエッセイ。なんとなく文人画の連作を眺めているような気がしました。

彼の書いた文章のほうが彼の音楽よりも入手が容易である現状で、松下眞一は、かなり損をしている気がします。

怯んで遠巻きにするのではなく、もっと色々聴いてみたいです。

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「可測な時間……」は、初演者の横井和子さん(関西の方ならば今もお元気にご活躍なのをご存じの通り)に捧げられていて、最後に音符が「ヨ コ イ」の文字の形で並んだ箇所がある曲。スペクトラ第1番(ユニヴァーサルから出版)は、モダンなグランド・ピアノの響きと内部奏法を対比する構成になっていて、第3番(未出版)では、内部奏法専門の助演者が加わって、ピアノを二人がかりでいじくり回す作品。音楽之友から楽譜が出版されている第4番は、複数のシート楽譜を一定のルールに従いつつ任意の順序で弾く、典型的な、管理された偶然性の作品ですが、これに先立つ第2番(「音楽芸術」付録としての出版)にも同趣旨の曲が含まれているそうです。

そして第5番が上記の横に長い絵巻物のような図形楽譜(音を出すための指示書きというより、その譜面を「眺める」ことに意味を見出そうとしていたフシもあるようです)で、晩年の第6番は、幼少期に好んでいたであろう近代フランス音楽風の拍子や和音のあるスタイルからいわばリスタートしつつ、これまでの経験を踏まえて書法を進化させた作品。

「スペクトラ」シリーズで書き残されているのは以上6作品ですが、松下眞一には、12曲一組になったピアノ音楽を書きたいという意志があったようで(当初スペクトラを12番まで書くつもりだったとか、最後の第6番が当初12曲の予定で、書かれなかった第7曲以後の6曲についても表紙にタイトルが予告されている、とか)、バロック以来の12曲あるいは24曲セットの鍵盤音楽の古典の数々(バッハやショパンやドビュッシー……)、そしておそらくシュトックハウゼンの複雑な成り立ちであるらしい一連のピアノ曲が念頭にあったのかな、と思いました。

「鍵盤音楽大全」を目指しつつ、そのプロジェクトがトルソに終わるというのは、いかにも20世紀の音楽家らしいですし、これは、もしかすると色々あった松下眞一という音楽家の仕事のなかで、一番美しいエピソードかもしれません……。

(色々なことに首をつっこんであれほどごちゃごちゃした生き方をするのでなければ、そして戦後日本が、ああいう人の思わずちょっかいを出したくなる誘惑がいかにもたくさんあった時代でなかったならば、あるいはもっと違った結末がありえたかも、と想像してしまいます。)

こうした全体の見通しをあれこれ考えることができたのも、全曲通しての演奏だったからこそ。

瞬時に大向こうを唸らせる効果で客をつかむ、というタイプではなさそうですから、ジャーナリスティックな論説には乗りにくいでしょうけれど、断片的な風評・印象で解決済み扱いするのは勿体ない。

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松下眞一は、存在自体が(おそらく当人に悪気はないのでしょうけれど)、学歴コンプレックスとか、数学アレルギーとか、横文字アレルギーとかその逆の舶来崇拝とか、その種の心の弱みを抱えつつ生きているオトナたちの神経をプラスにもマイナスにも過剰に刺激してしまうところがあるようで……、

先に「文人画」という言葉を使いましたが、

東大や京大の音楽部・音楽研究会など、あまり知力の面での劣等感をお持ちになることなく音楽を楽しんでいらっしゃって、世に流布するアマチュア音楽には満足できず、古今東西の難曲に果敢に挑戦していらっしゃるような方々には、格好の愛好対象ではないでしょうか。

文学の世界にはその種の韜晦趣味がジャンルとして存在するようですし、戦前・戦中には帝大生のアイドルだった「書斎の作曲家」諸井三郎という人がいました。音楽も、韜晦趣味をひとつのジャンルとして認定していいんじゃないかと思います。

事実、普通の大学生向けにはグリークラブ御用達の柴田南雄がありますし、

サークル活動で群れることなく、孤独に韜晦の森へとことんのめり込みたい向きには、松下眞一がよさそうです。

岡田暁生さんがアドルノやバルトを引きつつ主張される「好事家の復権」の極北として、松下眞一はお薦めかもしれません。

(岡田さんと大井さんは、洛星高校オーケストラ部で年は離れていますが先輩後輩の関係。旧制三高音楽部を学制改革のときに、大井さんが大学時代にいた現在の京大音楽研究会として再出発させたのが精神分析の木村敏先生。木村先生は、岡田さんや私の恩師である音楽学の谷村晃先生と同じ時期にミュンヘン大学に留学して、ゲオルギアーデスの講義も熱心に受講していらっしゃったそうです。そして最近とんがった音楽書の出版が続いている某出版社のK氏というのは、木村敏先生のご子息なのだとか。ぐるりと人間関係が一周して今日に至る京大音楽愛好知識人脈に、松下眞一は近いような近くないような……。)

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(そういう意味でも、今回、回顧演奏会を京都で開催できたのは良かったかもしれません。若い方も来ていらっしゃいましたが、客席には、60年代の熱い前衛をリアルタイムに経験された世代の方も来てくださっているようでした。)

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結局のところ、柴田南雄と松下眞一は、音楽文化のメインターゲットがいわゆる中間層(=サラリーマン・小市民でしょうか)である昭和・平成の日本で、都会のエリート層に軸足を置いた音楽を戦略的(柴田南雄)あるいは無意識的(松下眞一)に模索し続けた人だったのではないかという気がします。

柴田南雄は、そんなことを露骨にやれば反発を受けることがわかっているから、凡人への刺激が少ない巧妙に友好的なやり方をしたと言えるでしょう。

(そこが良くも悪くも戦略的で、晩年の異様な名声は、インテリがインテリであるという理由だけで持ち上げられる大衆社会現象の一変種のように思います。そして世の吉田秀和礼讃にもちょっとそういう雰囲気を感じます。インテリというのは政治的・社会的に形成される階層なのに、そこに属する個人が評価の対象になる奇妙なねじれ……。)

一方、松下眞一は、遠慮や裏表のない人だからガンガン突き進んで、案の定、相手してくれる人がどんどん減っていったようです。そして、なんとなく「実際は大した人じゃなかったんじゃないの」と片付けたい雰囲気ですが……、

私は、柴田南雄や松下眞一はもともと音楽でそんなに大それたことをやろうとした人ではなく、いわば階級的必然に素直に寄りそう趣味嗜好の人たちだったように思うので、彼らが大した人だったかどうか、という判定には、あまり意味がないと思っています。

世の多数派であるところの中間層や大衆(わたくしもその一人かもしれないような)とは徹頭徹尾、最初から最後まで無関係なところに棲息する、いわば、現代の士大夫文化のようなものを松下眞一は(そしておそらく柴田南雄も)希求していたのではないでしょうか。それが、リルケを引用しつつ宇宙へ思いを馳せる管弦楽曲「星達の息吹」などへの常套的な形容になっている、松下眞一の“知的で透明な抒情”の指し示す領域だったのではないでしょうか。

(ただしもちろん、高踏的ではあっても、同時に万人に開かれていて、星空を誰もが眺めることができること、そして光が万人に降り注ぐようなものであることを同時に夢見てはいたはずで、その意味では、衆人環視下での秘教の儀礼、そんな矛盾した性格を帯びていたとも言えるかもしれません。オレはそういう風に前衛・実験をやっている、お前たちはどうしてそうしないのか、と作曲家仲間に言い続けたところが、周囲の人にしてみれば、付き合い難かったのでしょうね……。)

漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界 (NHKブックス)

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