「象牙の塔」と旧約伝道の書のジェンダー論?

[サント・ブーブの用例と思しき文章がみつかったので追記。7/27 ヴィスコンティ、ゼッフィレッリの話はhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110718へ移動。9/7 英語版ウィキペディアのIvory Towerの項目、および、厨川白村の原文を追加。]

ぞうげ‐の‐とう〔ザウゲ‐タフ〕【象牙の塔】
《(フランス)tour d'ivoire》芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地。また、現実から逃避するような学者の生活や、大学の研究室などの閉鎖社会。フランスの文芸評論家サント=ブーブがビニーの態度を評した言葉で、厨川白村(くりやがわはくそん)がこれを紹介した。

ぞうげのとう【象牙の塔】の意味 - goo国語辞書

厨川白村
[...]1917年、病没した上田敏の後を受けて京都帝国大学英文科助教授となる。19年、教授となるが、この頃足に黴菌が入り左足を切断、23年の関東大震災に際し、鎌倉の別荘にあって逃げ遅れ、妻とともに津波に呑まれ、救助されたが泥水が気管に入っていたため罹災の翌日死去した[...]。

厨川白村 - Wikipedia

厨川白村が「象牙の塔」の語を紹介したのは『近代文学十講』(1912)で、1920年の『象牙の塔を出て』の序文でも同書の語源を説明した箇所を引用している(のを国会図書館のデジタルライブラリーで確認できる)。

……というわけで、「象牙の塔」は、「〜へこもる/〜を出る」という動詞とともに、主として芸術至上主義や学者の現実逃避を批判する文脈で普及したようですが、

Googleで検索すると、チャンパ遺跡のヒンズー教寺院が「象牙塔」と通称されているのは学者や芸術家が出入りする「象牙の塔」とは直接関係がなさそうで、サント・ブーブの揶揄の出典は、旧約聖書ではないかとされているようですね。雅歌7.5。少し前から引用すると、

気高いおとめよ
 サンダルをはいたあなたの足は美しい。
 [...]
 乳房は二匹の子鹿、双子のかもしか。
 首は象牙の塔。
 目はバト・ラビムの門の傍らにあるヘシュボンの二つの池。
 [...]

ソロモンの雅歌における「象牙の塔」は、すらりと伸びた乙女の首筋の比喩です。

そしてサント・ブーブの言葉としてネット上で見つかるのは、

Et Vigny, plus secret,
 Comme en son tour d'ivoire, avant midi, rentrait.

(フランス語は不案内ですが、ひょっとして、「secret/rentrait」は語呂合わせでしょうか? 「そしてヴィニは、あまりに秘密めいている/あたかも、朝っぱらから、彼の象牙の塔へ引き籠もるかのように。」というような訳で合ってますでしょうか。

「象牙の塔」がソロモン雅歌を踏まえているとしたら、「朝っぱらから(お昼前から)象牙の塔へ籠もる」というのは、朝っぱらから(美しい乙女のいる?)部屋に籠もっていったい何をやっているのやら(笑)、という、エロティックな連想を含む戯れ歌になっている、という読解で大丈夫でしょうか?

もしそうだとしたら、なるほど、美へ引きこもる詩人への痛烈な揶揄ですね。)

サント・ブーブや厨川白村が芸術や学問の孤高の気高さを魅力的な女性の首筋のイメージと重ね合わせていたとすると(←私には本当にこの解釈でいいのかまったく自信がないのですが[とりわけ厨川が聖書の出典を認識していたのか、よくわからないのですが]、面白そうなのでとりあえずこのまま進めます)、そこには、女性を奪い合う男同士のライヴァル関係(「男・女・男」の三角関係)がホモソーシャルな「男同士の絆」の構造的前提であるとするセジウィックの見立てが思い浮かびます。サント・ブーブや厨川白村からはちょっと離れてしまいますが、芸術家や学者たち(←暗黙に男性を想定していると考えられる)が、すらりと伸びた首筋(あたかも「象牙の塔」のような)を生娘のように誇っている、というようなイメージです。

厨川の『近代の恋愛観』(1922)は、「いわゆる恋愛至上主義を鼓吹し、ベストセラーになった」(ウィキペディア)そうですから、「象牙の塔」の語は、ホモソーシャルな芸術・学問共同体と異性愛とが表裏ワンセットになった発想のなかで流通したということになるのでしょうか。ホモソーシャルな欲望を前提としつつ、それがホモフォビアを通過したところに、学問・芸術は「象牙の塔/乙女のすらりと伸びた首筋」として立ち現れる、と。

だとしたら、まさしく正しい旧帝国大学のエートスでございます。そして、本郷の人が「オレは象牙の塔へこもる」と宣言するのに遭遇したときに感じる戸惑いの根は、ここにあるのかもしれません。「音楽の国ドイツ」の人がそういうことを宣言すると、何やらとっても隠微な感じになる。(百万遍の人は、おおかた婆娑羅な世捨て人なのだろうという予断がこちらにあるから、そこまで戸惑いは感じないのだが。)

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さて、そしてソロモン王といえば、吉田秀和に「ソロモンの歌」というエッセイがありますけれど、エピグラフはコヘレトの言葉1.9。

「かつて起こったこと、それはこれから起こるだろうものとまさに同じだ。人間がかつてやってきたもの、それは彼らがこれからもやるだろうことにほかならない」(ソロモン)

吉田秀和は、珍しく自伝的な回想を織り交ぜながら、日本と西洋の伝統を綴った文章に、ダビデの子でユダヤの王国の伝統を打ち立てたソロモン王の言葉に擬せられた文章を引用したわけですね。「ソロモンの歌」の初出は『展望』1966年(昭和41年)2月号(単行本の刊行は1970年(昭和45年)11月)。著者が、近代批評のダヴィデ(←とは誰か、小林秀雄?)から音楽評論の王国を継承したソロモンであると見られてしまうかもしれないことを受け入れた上で書いた文章ということになるのでしょうか。

大衆情報社会の有名人は、うっかり自伝的回想を洩らすにもしかるべき作法が必要で大変そうですね。

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「ソロモンの歌」では、なによりも吉田秀和の相撲への愛着が印象的で、なんだか、砂漠の真ん中で大男が裸で取っ組み合うのを玉座の吉田秀和がながめているアイーダ風の歴史絵巻を思い浮かべてしまうのですが……。
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そして砂浜の相撲といえばこの映画。ヤクザは「男同士の絆」の世界ですし。

補足:

http://ikai-hosoboso.blogspot.com/2011/02/blog-post_21.html

↑こちらの記事を拝見して、とても勉強になりました。

「象牙の塔」という慣用句が日本で知られているのと同等に欧米で今も使われているのか、不安だったのですが、英語版ウィキペディアには、ちゃんとIvory Towerの項目が立っていました。

The term Ivory Tower originates in the Biblical Song of Solomon (7,4), and was later used as an epithet for Mary.

From the 19th century it has been used to designate a world or atmosphere where intellectuals engage in pursuits that are disconnected from the practical concerns of everyday life.

Ivory tower - Wikipedia, the free encyclopedia

そして厨川白村『現代文学十講』の原文。

ロマン派文学の一面には、芸術至上主義とも云うべき傾向があつた。即ちすべての芸術は芸術それ自らの為に独立に存在するもので、決して他の問題と関係しない。世知辛い苦しい現在の生活に対して、全く超然高踏の態度を取るべきものだと唱へた。醜穢悲惨の此俗世をよそにして別に清く高くまた楽しき「芸術の宮」−詩人テニソンの歌つたやうなthe Palace of Art或はSainte-Beuveがヴィニーを評した時に云つた「象牙の塔」tour D'ivoireの中に、独り立籠らうといふ所謂「芸術の為の芸術」art for art's sakeが其主張の一面であつた。然るに今や時勢は急変して物質文明の盛な生存競争の烈しい世の中になつて、人の心には一時一刻と雖も実人生を離れて悠遊するだけの余裕がなくなつた。人々は現実生活の圧迫を一層痛ましく感ずるに至つた。人生当面の問題が行往座臥つねにその脳裏を往来して心を悩ましている。そこでついに文芸ばかりがいつ迄も呑気な事を云つているわけにも行かず、勢い現在生存の問題に密接な関係を持つ事になつた。眼前焦眉の急に迫つて人々を悩まし苦しめている社会上宗教上道徳上の問題が直に文芸上に取り扱はれる程までに、実生活と芸術とは接近した。(厨川白村『現代文学十講』1912, p. 261)