ヴェルディと弘兼憲史

[8/18 後ろの方の吉田秀和体験談を少しずつ書き足しています。8/21 1970年代の朝比奈隆のヴェルディについて、短いコメントを追加。]

2つ前のエントリーで、吉田秀和が1954年にブレイク直前のマリア・カラスをスカラ座の「ドン・カルロ」で観たらしいと書きましたが、

マリア・カラスはエリザベートをどんな風に演じたのだろう、「マクベス」(1952年)で観客の度肝を抜いたとされる静から動への瞬時の転換があったり、息子に「父王を殺しなさい」と言い放つときには「メデア」(1953年)のような凄みを見せたのだろうか、と思いながら、「ドン・カルロ」の手元の映像を観て、思いついたこと。

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これは、もともとパリ・オペラ座のために書かれたグランド・オペラなんですね。

で、グランド・オペラは、-- 「グラントペラ」と呼ぶのが正しい、とか、そういう物の言い方をするところが、日本の音楽学に漂う“藝大楽理科の臭い”の一番良くないところだと私は思っていますが、それはともかく、-- 歴史上の政治的な事件などを背景とする実録風の物語で(=江戸歌舞伎で世話物が「時代」に填め込まれていたようなもの? ちょっと違いますか?)、舞台を埋める群衆と主人公を対比するタブローのような効果を活用する、とか、パリのオペラなのでバレエが必須、等々と特徴が列挙されますが、

(項目を列挙するところで記述を停止して、「要するに○○ということです」という風に読者に歩み寄って図解したりしない態度が「科学=学問」の良心だ、と決めてかかるところも、往年の日本の音楽学のひとつの特徴だったでしょうか、日本の洋楽演奏家が長く両大戦間の新即物主義=「楽譜通り正確に!」に呪縛されていたように、日本の音楽学は、理想と仰いだ「ドイツの地道な音楽学」の実証主義を「間違いを冒すくらいなら、無愛想で説明不足なデータの羅列のほうがいい」という防衛的な態度として受け入れていたように思います、もちろん、重要なデータ群を誰でもアクセスできる状態で公開するのは大切なことで、その仕事が止まってしまったら学問が枯渇するので続けなければいけないのだとは思いますけれども、口の達者な人につけいられたり、さもなければ独自用語を使わない人を「素人視」する排他性で煙たがられるデメリットと常に裏腹ではあるのですよね(どっちでもいいこと、一つに決められないことが世の中にはたくさんあるのに……)、時には仮説を立てて「先手を取る」ことが必要な局面になる、要所で上手く話が転がっていく仮説を立てる力があったから「ドイツの音楽学」は機能したのだと思います、ワールドカップ優勝は攻撃的MFのマテウスがいたからだ、と……、閑話休題)

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遠近法=パースペクティヴ、という言葉をperspectivaというラテン語に遡って、その詮索から色々な論点を取り出すのは、いかにも「ドイツの音楽学者」っぽい手法だと思いました。

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「ドン・カルロ」でバスの老いた王様とバリトンの侯爵が黒々としたオーケストラをバックに延々と会話している場面(すべてが低温部譜表で進行している!)を見ながら、これは、昭和のサラリーマン雑誌に出ていた実録政治小説(『小説吉田学校』?)や『モーニング』の弘兼憲史の劇画とか、そういうものなのかなあ、と思いました。貴族ではなくて、七月革命後に自分たちの時代が来たと思ったブルジョワ男性の皆さまのための娯楽。森繁久彌を中心に、芦田伸介とか、若手といっても西郷輝彦とか、そういう顔が、みんなスーツ姿で出てくるようなお芝居。

(余談ですが、山根銀二はタキシードを持っていたのでスカラ座のガラで招待された桟敷へ無事に入ることができたけれど、吉田秀和は正装の用意がなく、イタリアの劇場で天井桟敷へ行けと言われたらしい。)

そして現代の感覚で見て最も対処に困るのが、フランスのオペラの長い長いバレエ・シーンですが(「ドン・カルロ」のスカラ座向け4幕イタリア語版ではカットされている)、たしか、パリ・オペラ座の桟敷の「お殿様」は、バレエ公演のときには踊り子さんの楽屋へフリーパスだったと聞いた記憶があります。旧体制の宮廷劇のバレエには、また別の意味があったのでしょうけれど、19世紀のブルジョワの劇場で、オペラ本公演にバレエが入るのは、何と言いますか、男性週刊誌のグラビアページみたいなものだったのではないでしょうか。

(ゼッフィレッリが演出すると、「アイーダ」でも「ドン・カルロ」でも、裸身の男性が踊って、別の方面の需要に応じているような雰囲気になってしまいますが。^^;;)

夫婦同伴のオペラ公演で、露骨に破廉恥な振る舞いに出るわけにはいかないにしても、顔見せ的に踊り子さんが出てくることは、殿方にとって嬉しくもあり、需要(?)があったのであろう、と。

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……あまり頑張って書くことではなさそうですが、政治劇風のグランド・オペラや、男臭いヴェルディを色々見てようやく、ちょっとだけワーグナーがこの時期に出てきた背景がわかったような気がしました。19世紀半ば頃、そろそろ「国民国家」というシステムがリアルな話題になりはじめた頃のヨーロッパでは、劇場が「男性市民」(バリバリ働いてたくさん税金を納めて「選挙権」を持つような)を主たるお客さんとして意識しはじめて、彼らが喜ぶ出し物を工夫していたのでしょう。この人たちには、カストラートもソプラノのコロラトゥーラも、メルヘンやゴシック小説の「子供だまし」も通用しなさそうですし……。

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社長のお屋敷で展開するシェロー演出の「神々の黄昏」が、そのあたりの歴史性を舞台で視覚化した嚆矢ということになるのでしょうか。

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ヴェルディ、ワーグナー的な「仕事ができる男たちのオペラ」との対比で言うと、ヴェリズモ(自然主義)は、立身出世をしない/できない情けない男の物語ですね。元カノを忘れられない「カヴァレリア・ルスティカーナ」とか、若い妻の浮気を知って楽屋で大泣きする「道化師」とか。どちらも、小さなシチリアの村や旅回りの劇団で、いつまでもこのままの生活が続くのだろう、という人たち。オペラも一幕もので、彼らの生活圏と同じく「小さい」。

(びわ湖ホールのコンヴィチュニー・アカデミー「ボエーム」は、最後の発表会だけ観ましたが、ロドルフォがミミに自分語りする「冷たい手」が、ずっと下向いたままで、売れない詩人の鬱屈した独白。語れば語るほどやり場のない怒りがこみ上げるという演出で、上手いなあと思いました。作品の読みという点でも、若い歌い手さんにとっては、こういう設定のほうが入りやすくて、役が広がるだろうという点でも。

さっき知り合ったばかりの二人が第2幕ではもうデレデレしているところがちゃんとつながっていて欲しい、とか、カルチェ・ラタンのクリスマスのパーティが盛り上がるというのはどういう雰囲気なのか、とか、演出家の目で見ると、台本・音楽の「意図」はわかるけれど、目の前にいるこいつらがそれを上手く演じられるのか、難しいところが色々具体的にあるに違いなく、それをひとつずつ解決していくと、こういう実装になったのでしょう。

ミミが死んで、仲間達が、求心力を失った分子が分解するみたいに四方へ散っていくのは、パーティが盛り上がっても、二次会三次会とダラダラ続けないで帰っちゃう今時の若者っぽい感じで、2011年の夏の10日間だけここに集まったつかの間のチームならではの、一種のヴェリズモですね。

前にびわ湖ホールが本公演でやった、男達が立身出世するボエーム(21世紀に首都へ昇格した未来都市ベルリンの「真実」?)よりも、こっちのほうが、この場所・座組では板に付いているかも、と思いました。)

そしてちょっと話は飛びますが、1950年代のマリア・カラスは、リアリズムを通過した「無声映画のように」雄弁で個性的な所作と、レパートリーから既に消えてしまっていたドニゼッティやベッリーニを楽々と歌える一種「巫女的な」歌唱力を併せ持っていたことで、賛否両論を巻き起こしつつスターダムにのしあがったのだとか。ロマンチストなりの「真実」を体現していたはずの19世紀前半の伝説のソプラノ歌手たちの時代から、ヴェルディなオトコたちの時代があって、プッチーニとヴェリズモになって……、マリア・カラスのところで、イタリア・オペラの歴史が、100年かけてぐるっと一周回った感じになっている、という解釈があるようです。

マリア・カラス 舞台写真集

マリア・カラス 舞台写真集

パパラッチ的なスナップショットやグラビア、ブロマイド的なものは一切なし。ドイツの歴史家(でいいのでしょうか?)が、演技者としてのマリア・カラスを舞台写真で分析する真面目な本です。

何の予備知識もなくマリア・カラスを観て「いい」と判断したのだから、山根銀二は世評と違って、ちゃんと目が効いたのだろうと思いますし(資料で読むかぎりでも、ヴィスコンティ演出の「夢遊病の女」は、ヒロインに感情移入せずにはおかない感動的な幕切れだったようではありますが)、一方で、所得倍増計画が発表されて、サラリーマン大国になろうとしている日本で、「週刊新潮」(1956年の創刊に齋藤十一が関わり、連載は五味康祐「柳生武芸帳」とか、柴田錬三郎とか)の出版社から売り出されようとしている吉田秀和は、マリア・カラスをうまく位置づける言葉が見つからなくて、それでノーコメントになったのかなあ、と思います。

(齋藤十一が吉田秀和にコンサートではなく音盤(LP)を題材とするクラシック本を書かせようとしたのは、自分がオーディオ・マニアだというだけでなく、これからは、自宅でステレオを聴くサラリーマンのために書くべきだ、と思っていたのでしょう。そしてそういう空間では、マリア・カラスを「伝説の美貌の歌姫」のポジションに置くくらいしかできなかったのかも。

私自身の(みっともない)吉田秀和体験を振り返っても、高校生の頃、帰宅のバス待ち中に駅前の本屋(先日閉店してしまいました←郊外のシャッター商店街だ!)で新潮文庫の音楽書を次々買っていて、小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(文庫版1980年)や『五味康祐 音楽巡礼』(1981年)と一緒に、『世界の指揮者』(1982年)や『世界のピアニスト』(1983年)を読んだのが、たぶん最初だと思います。

五味康祐の本は、トリスタンの話の途中で、旧知の人妻と一夜の不倫をした話が出てきたりします。新潮文庫の書誌を調べていて思い出しましたが、たしかちょうどこの頃、新潮文庫はこういった音楽読み物のライン・ナップの充実に力を入れていたんじゃなかったでしょうか。メインターゲットはサラリーマンだと思いますが、高校生を吉田秀和と巡り合わせる副作用があったようです。同世代でこういう人、結構いるんじゃないでしょうか? わたくしのなかで、吉田秀和はサラリーマン向け啓蒙書の人であり、「サブカルとしてのクラシック音楽」の人なのです。

しかもこの「新潮文庫の吉田秀和」が出ようかという1981年に齋藤十一は写真週刊誌「FOCUS」を創刊しているのですが、「FRIDAY」「FOCUS」でワイドショーがエンタメとして一挙に活性化したのだという80年代の風俗史は、今の若い方々に通じるのでしょうか?

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昭和40年代以後に生まれたクラシック・ファンはこんな風に「育ちが悪い」ので(自嘲)、吉田先生がさらに長生きなさって全集の続巻が出たとしても、これ以下の世代が白水社にふさわしい立派な解説を書くのは難しいかもしれませんね。ハンバーガー並の値段で読めてしまう文庫ジャンキーになる前の吉田秀和と出会えたのは、片山杜秀さんあたりが最後なのかもしれません。)

オペラ・チケットの値段

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佐々木さんは、そんなオーディオ・マニア時代の日本からの初の渡欧でパリに着いたその夜にマリア・カラスを観てしまって、その後16年がかりでスカラ座招聘を実現した、という壮大な物語になっていますが……。

日本のオペラ公演史をまとめてくださっている方がいて(http://tc5810.fc2web.com/)、日本初演記録を見ると、「運命の力」の日本初演が1960年(東京オペラアカデミー)で、「ドン・カルロ」を1967年にNHKの第5回イタリア・オペラがやって、「ナブッコ」(1971年、声専オペラ研究会、演奏会形式)、「マクベス」(1974年、二期会)、「シモン・ボッカネグラ」(1976年、第8回イタリア・オペラ)と、70年代にヴェルディの作品が上演されるようになったみたいです。

関西歌劇団も、三谷礼二の演出で、やはり70年代に、「トロヴァトーレ」(1972年)、「運命の力」(1973年)、「ドン・カルロ」(1976年)と立て続けにヴェルディをやっていて、大栗裕の最後の歌劇「ポセイドン仮面祭」(1974年、「ファルスタッフ」もどきの重唱が最後にある)は、この間に挟まっています。

[8/21追記]

(関西歌劇団の1970年代の朝比奈隆指揮&三谷礼二演出シリーズは、他には1974年の「お蝶夫人」と1976年秋の「魔笛」(←これはラジオ放送時の録音(部分)を最近入手しました)。この2つは、朝比奈がヨーロッパでも指揮した作品で、彼の得意な(好きな)演目だったのだと思います。逆に言うと、70年代の朝比奈=オペラの指揮をしていた最後の時期の朝比奈にとって、ヴェルディは、お気に入りの「蝶々夫人」「魔笛」と並ぶ二本柱のひとつだったということです。ベートーヴェン指揮者が、「ヴェルディ=オペラ界のベートーヴェン」に取り組む、というイメージだったのでしょうか。)

[追記おわり]

ヴェルディといえばリソルジメントではありますけれども、島耕作がどんどん出世して社長に登り詰めるような、オトコの上昇志向(「週刊新潮」といえば「金と女」だったそうで)が似合う出し物なのでしょうね。

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日本で上演された「シモン・ボッカネグラ」というと、やっぱり1981年のスカラ座でしょうか。ストレーレル演出のこれと、ポネル演出の「セヴィリアの理髪師」と、ゼッフィレッリ演出&クライバーの「オテロ」、「ボエーム」を一挙にやったのですから、もの凄い引越公演だったんですね。

ただし、このときの引越公演では、装置・演出と指揮者が「売り」になっていて、歌手=役者の芝居を食い入るように見る、という初期のNHKイタリア歌劇の解像度の荒い中継映像に顕著であった視線は希薄になっていたように思います。

佐々木さんの欧州オペラ体験の原点がマリア・カラスだったのだとして、本場のオペラを日本で見せたいという夢が実現したときには、舞台も観客も、歌手=役者を見る時代ではなくなっていて、ヴィジュアル・コンテンツとしてのオペラの時代の幕を開けてしまったのは、こういうのを「歴史の狡知」と言うのでしょうか。