煽るな、バカ

[10/29 バッハのインヴェンションの簡単な分析を追記。お漏らしして泣き叫ぶ他人の赤ちゃんのオシメを取り替えてあげるような余計なお節介だとは思いますが、ギャーギャー泣きわめかれるとウルサイので。]

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/21741756.html

大久保賢が、またややこしいところへ突撃している。

少なくともバッハのハ長調のインヴェンションから「話題subjectが単一」という構想を読み取るか、この作品の楽譜を「複数の素材から成り立っている」と記述するか、という見解の相違については、音楽理論と音楽分析の歴史と現在を踏まえるとそれなりに明快に整理できるし、どっちが正しいか、ではなく、どうしてこのような見解の相違が生じるか、を論じた方が生産的である、というのが私の考えです。

そしてそのような方向へ話が進まないのは、かつて「バッハの音楽は一元論的であり、ベートーヴェンは二元論的だ」というような議論があった(たとえばアウグスト・ハルムとか)、というような西欧の音楽文化論の歴史、そして、様々な変遷がありつつそうした蓄積が現在に至ってもそれなりの有効性や影響力をもっているかもしれない可能性を、『音楽学』という雑誌に寄稿したり、この雑誌を編集している人たちや、それを読む大久保賢という人が、知らないのか、うっかり忘れているのかどうなのか定かではないけれども、考慮に入れないからではないか。もうちょっと正確にいえば、もはやそのようなことを考慮に入れないほうが都合が良いのだという、個人の思考を越えた規制が作動しているからである可能性があると、私は考えています。

(具体的な説明をしている時間がないので、それぞれに情報等を探索してください。)

[10/29 追記]

バッハのインヴェンションについて、簡単に書きますと、この曲が2つの素材からできている、という見解は、右手の最初の2拍の16分音符の動きを第1の素材(仮に「素材a」とします)、次の2拍の8分音符の動きを第2の素材(仮に「素材b」とします)という風にカウントしているようです。

この曲に、「素材a」のさらに前半の4音(ドレミファ)を2倍の長さに引き延ばしたような動きが出て来たり(第3小節の左手など)、上下をひっくりかえしたような動きが出てくること(第3から4小節の右手など)は周知の通りです。こうやって「素材a」を様々に活用しながら、曲は属調G-durでカデンツを形成して、そのあと後半になると、今度は、それまでの歩み全体を視野に収める一段高い視点に立つかのように、そこまでの右手と左手をそっくり入れ替えたような展開になり、修正や逸脱を含みつつC-durへ戻ります。このように「素材a」は、曲のなかで常に活用し続けられる「話題」として、かなり盛り上がったと見ることができそうです。

これに比べると、8分音符の動きは、そのあと、それほど表だって活用されてはいないようです。第3小節の左手が8分音符で動くのを「素材b」の活用と解釈すれば、ここで、「素材a」の音程と「素材b」のリズムが組み合わされている、とかなり格好良く説明することができるかもしれませんが、バッハがここでそのような、ベートーヴェン以後の動機加工を先取りするかのような処理を施したと見るのが妥当かどうか、はっきりしません。

仮に、そのように解釈するとしても、「素材a」の全曲にわたる活用のされかたとは、随分性質の違う処理であることは否定できません。もし「素材b」を「素材a」と同等・同質に活用するとしたら、「素材b」を圧縮した16分音符の動き(たとえば「ドシド レレドレ ミミレミ ファファミファ | ソ」と16分音符で動く等)、あるいは、「素材b」の反行形(8分音符で「ドレド シシドシ | ラとか)が出てきてもよさそうなのに、そのような箇所はこの曲には見当たりません。

このような観察を踏まえると、「素材b」は、「素材a」と同格の第2の素材としては扱われていないと考えざるを得ません。そもそも、この8分音符の動きは独立した「素材」とみなされていないか、さもなければ、「素材a」とは別種の役割を与えられている、と見るのが合理的でしょう。

そしてバッハ時代の作曲技法のなかに、「素材b」の扱われ方に最も近いものを探し求めるとしたら、それは、フーガにおける主題の「対位」ではないかと思われます。実際、第1小節においても、第2小節においても、「素材b」とここで呼んだ音型が出てくるときには、いつももうひとつの声部が「素材a」を弾いています。

「素材a」をまず右手で示し、次に左手がこれを模倣する、という多声的な処理を構想して、左手が「素材a」を模倣するときに右手がこれに呼応しつつ動く箇所が、あたかも新しい素材であるかのように見えてしまっている(それが、その後の成り行きで、特段の「話題」として盛り上がるわけではないのだけれど……)。というのが、この曲の実情ではないでしょうか?

音楽の分析や形式把握(楽譜の読み)は、くそまじめな書記官じゃないんですから、新しい動きが出て来たら、何でもかんでも、順番にラベルを付けねばならない、というものではない。8分音符で動く対位声部にわざわざ独立した名称・ラベルは必要ない、というのが、穏当な分析ではないでしょうか。

大げさな術語を使って、ありもしない「第2の素材」が存在するかのように語るのは、たとえ語り口が冷静であろうが何であろうが、日本語の言葉遣いが異形であることよりも、音楽に対する「不誠実」の罪が重い。ポンコツで似非科学的なくせに正しさを装う分析はもう止めてくれ、と私は思います。

[追記おわり]

さてそして、フランスへ行って、向こうの発想に染まっちゃった人と、そのあたりの事情がわからずにいる人の話がかみ合わないのは、よくあることでしかないわけで。

バッハのハ長調のインヴェンションから「話題subjectが単一」という構想を読み取るか、この作品の楽譜を「複数の素材から成り立っている」と記述するか、という見解の相違の背景には、

「人は見たいものしか見ないという規制のなかでものを考えるしかなく、その前提を忘れて取り扱うと、不毛な言い争いになる。」

という事情があるように思う。

当事者同士が、見解の相違を先鋭化するのは仕方がないけれど、周りで、尻馬に乗って、不毛な煽りを入れてどうするのか、バカ。と私は思う。

(それから、外国へ行くチャンスがなかった大久保さんがそういう形で「おフランス」の人に噛みつくと、周りから見たときに、本場を知っている人vs本場を知らずに強がりをいう人、という、妙な文脈が形成されてしまう可能性があるから、気をつけたほうがいいかもしれない。

小鍛冶邦隆さんは、「異人」の国で何年も挌闘して帰ってきた帰還兵なんだから、ちょっとくらい言葉遣いがおかしくても、それなりの「いたわり」の目で見てあげていいんじゃないか、と私は思う。井伏鱒二の「遙拝隊長」みたいなものだ、ということで。

フランス帰りの誰もが池内友次郎のように「家元」の地位に収まることができるわけではないんですから、そこまで偏狭にならずに。^^;;)

時間がないので、以上、簡単に。

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

太宰治をエディプス・コンプレックスで苦しめて、他人の日記の丸写し批判があって、今や井伏鱒二のイメージはよろしくない感じですが、悪にまみれた人というのは、かえって懐かしい感じもある。ユーモアの人は北杜夫先生だけじゃないっすよ。

[原稿を出して、10分だけ時間が取れそうなので追記]

書物・テクストの「読み」が文化であるように、楽譜の「読み」にも多彩で多様な文化的な厚味を想定したほうがいい、ということに同意してくださる方は少なくないと思いますが、

その前提で考えた場合、小鍛冶邦隆氏のバッハのハ長調のインヴェンションから「話題subjectが単一」という構想を読み取る態度のほうが、楽譜の読みとして、不親切ではあっても正統的であり、この作品の楽譜を「複数の素材から成り立っている」と記述するのは、楽譜の細部に拘泥して落ちこぼれてしまう初学者を救済するために懇切丁寧なケアに心がける受験参考書的な読みを連想させる、というのが私の判断です。

後者の立場から、「受験生を惑わすような物言いはやめてください」とPTA風に抗議されたら、たぶん、前者の立場の者は絶句せざるを得ないと思う。なぜ、ここをこういう風に読むのか全部説明しろ(テストに効率よく答えることができるように)と言われても、そのような読解にたどりつくために、こっちはどれだけの労力と時間と人生を費やしてきたか、という話ですよ。

そこをぐっとこらえて、冷静に答えるのが真の知者だろうとは思うけれども、そこまで要求するか、という話ですよ。とりあえず、相手が理解できようができまいがひととおし足早に答えて退散してもらおう、というような応対をされても、それは、しょうがないのではないか。そしてそのようなやり取りをみて、何を騒いでいるのか、ということです。

わたしは、『音楽学』でのくだんのやりとりを読んだときに、ああ、こういうのが展開される時代になったのだなあ、大変だなあ、と思ったのを覚えています。やるなら、やるしかないと思いますけど。

そして、いわゆる文化相対主義で、暗黙のうちに従来、観察者よりも相対的に弱い立場とされてきた者に対しては、辛抱強く、相手の(一見理不尽な)言い分に耳を傾けるのに、暗黙のうちに従来、観察者よりも相対的に強い立場とされてきた者はいくら叩いてもいい、というような態度は、いわゆる逆差別だと私は思う。

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ただし、さきほど私が「バカ」という言葉を使ったのは、相手を見くだしているというよりも、ひたすら時間がなかったからです。

夫婦共働きで、さあ出勤というタイミングにかぎって、赤ちゃんが引きつけを起こす、みたいなシチュエーションが、きっと日常しばしば起きているかと思うのですが、そういうときに、笑顔で対応できるほどに私は人間ができておらず、「黙れ!」と、つい言ってしまう。

そういうダメな人間だから、わたくしは、これ以上迷惑をかける「肉親」の数を増やすことに慎重で、いまだ独身なのである、ということで、妙な言い訳であろうかと思いますが、ご容赦いただきたいのでございます。

でも、

公衆の面前で、ブログという肉親でもない赤の他人の前で、突然「引きつけ」のような癇癪を起こすか、普通?

という苛立ちがあるのも否定できないわけであって……。

先方にとっては迷惑なだけかもしれませんが、大久保賢氏は、私如きなど足下にも及ばないその才能を有する立派な音楽学者・音楽評論家であるはずだ、とわたくしは信じている、という、ただそれだけのことだと思うのですけれど……。