歴史学の「プロ」の「オリジナリティ」とは、リアルでエクセレントな殺戮願望である(與那覇潤『中国化する日本』最終決戦(なのか?))

[注:この文章は途中で何度か転調するので、最後までお読みいただいてからご判断いただくのがよろしいかと思います。]

しつこいですが、小津本をどうにかクリアできたので、中国化本へ再チャレンジすることにします。

本書は、[……]専門家のあいだではもう常識なのに一般の歴史ファンにはなかなか広まっていかない新しい歴史像を、読者のみなさんにわかりやすくお届けすることを目的にしています -- 「にわかに信じられない」という方のためにも、一般書としてはかなり丁寧に記述内容の出典表記をつけて、興味を惹かれたテーマについてはどんどんオリジナルの研究に当たってもらえるよう、工夫しました。(與那覇潤『中国化する日本』、21頁)

私は、人の言うことを素直に信じる、迷える小羊なので(笑)、「パンク・ロック化する日本?●アナーキー・イン・ザ・ヨウ・メイ」に出典として挙がっている本を買ってみました。

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)

そして著者が言う「オリジナル」とは何か、「プロ」とは何か、ということに考えを巡らしてみました。

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歴史に限らず、学問というのは、仮説を立てて、それをひとつずつ所定の手順に沿って検証していく作業であり、歴史学の場合は、残された史料の整理・読解・分析作業が検証作業において大きなウェイトを占めることになる、

……などというのは、唯一普遍の真理を体現する「先進国・中国」から見るならば、いかにも後進国ヨーロッパの発想、辺境にチマチマと石を積み上げた効率の悪い住居に住む連中がプロテスタンティズムという邪教にかどわかされているがゆえのやせ我慢である、と一蹴されてしまうかもしれませんけれども、

[以下「中国化」した言葉遣いで語ってみますと、]

日本というのは、物の道理が「先進国・中国」とはすっかり反転しておりますから、「再江戸時代化」に凝り固まっているはずの東国の人々のほうが、かえって、「書の国・中国」を形だけマネして、「正史」を書くことに熱心であり、権威ある古典(「有力」とされる出版社が出した事典であるとか、一流とされる団体が作成した年鑑など)の記述をそのまま継承して、「日本戦後音楽史」といった書物が編纂されたりしております。

そして、彼らは「中国」成分が強い西国の連中の言うことなど、もちろん、まともに取り合ってくれませんから、仕方がないので、まるで水戸藩が「大日本史」を編纂するように、大阪の民間学校が卒業生音楽家の遺品であるとか関西洋楽史資料の収集をコツコツと続けたりして、西日本での出来事が「なかったこと」にされないための備えをしているわけです。

語源に沿った意味における「original(起源・出自を指すoriginから派生した形容詞)」な資料は、「中国化」した西国が生き延びる生命線・死活問題であるように私は考えております。

「中国化」で流動化した社会では、紙の証文だろうが何だろうか、使えるものは何でも最大限に使ってサバイバルしなければいけません。実証的な歴史学は、意外と「中国化」した社会の役に立ちそうだ、ということです。

(証文にハンコついたら、ナニワの金貸しは地獄の底まで追いかけまっせ、みたいなイメージも大阪にはありますし、市長さんも「アンケート」という紙を市職員に配付する……。)

[以上、ご不快を感じられたとすれば申し訳ないですが、試みに関西問題を「中国化」した日本語で記述してみました。]

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

そして前にもご紹介しましたが、ヨーロッパ中世史商人文書の研究などを見ると、ヨーロッパご自慢の「文書館」という制度は、商人の取引をめぐるトラブルを解決するために証文を保管しておく場所として発祥したらしい。

というわけで、

ヨーロッパの美徳とされるものを「それはウチが最初にやりはじめたことだ」と言い張って奪い返すのが「中国化」した論理(西洋流の「政治的正しさ」をもじれば「中華的正しさ」)だと思いますので、実証的な歴史学(証拠主義)というのも、後進国ヨーロッパが、先進国・中国から学んだマネに過ぎない、と言い張っちゃえばいいのでしょうけれども、

ともあれ、歴史学の文脈で「オリジナル」という言葉が出てくると、私はついうっかり、そのような意味におけるオリジナリティ=データ/資料が起源・出自から直接派生した、いわゆる「一次資料」であるということ、を連想してしまいがちです。

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が、どうやら、與那覇潤氏の言う「オリジナルな研究」というのは、そういうことではなさそうです。

與那覇氏が言う「オリジナル」は、「再江戸時代化」した縦割りに分化した学科(←最近の若手社会学者はなぜだか知りませんけれども「ディシプリン」というカタカナ表記を好む)の伝統に風穴を開ける試みの総称であるようです。

たとえば、「オリジナルな研究」として紹介されているのは、各学科の「家職」的な発想と手法の継承に汲々とするのではなく、中国思想史研究者が近代日本思想から陽明学成分を析出したり、建築学者が日本史における「古代」という時代区分に疑義を提出したり、といった「学科横断」の試みであり、

日本に古代はあったのか (角川選書)

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あるいは、歴史学に「西と東」、「海洋性」、人口動態といった新しい視角(パラダイム)を導入する試みがそれにあたるようです。

この場合、「オリジナルな研究」が仮説を立てただけなのか、かなりの程度の検証・論証を伴っているのか、という区別はあまりなされておらず、とりあえず、壁に穴を開ける破壊力があればいいみたいです。

(ただし念のために申し添えると、『近代日本の陽明学』は、いきなり壁を爆破するのではなく、日本思想史や日本史や文学史の膨大な研究を踏まえつつ、門外漢ながら別の視点から語れるところを語らせていただきます、という礼節をわきまえつつの叙述になっています。)

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與那覇氏における「オリジナル」の語は、「独創性」という通俗的な語感を保ちつつ、「学際性」であるとか、「創発性」であるとか、といった過去十年の日本の大学行政担当者からお褒めのお言葉をいただけそうな価値観(学術振興会のCOEプログラム = Center Of Excelent Programとか)と意外に近い意味合いであるようです。

証文をコツコツ集めて、これを楯にしてどこまでも闘う、みたいに「中国化」したゲリラ闘争はexcelentというより泥臭く、與那覇氏の価値観において「オリジナル」ではない。意外にもそういうことになってしまいそうです。

(また、與那覇氏の『中国化する日本』が、それ自体として「オリジナル」なわけではなく、「オリジナル」な研究の一番おいしいところを集めたリミックスであるということも言い添えておきたいと思います。『中国化する日本』という書物は、鮮やかな編集力・演出力によってexcelenceを生み出す、という、典型的に「ゼロ年代」なライフ・スタイルの、半ば本気で半ばパロディ的な集大成なのだと思います。)

太陽を盗んだ男 [DVD]

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だから、中国大陸はばかでかいし、原爆は最終兵器だけれども、『中国化する日本』という本は、これ単体だと、太陽を盗もうとした=原爆を自力で作ろうとした沢田研二(それはどこかしら巨●願望に似ていなくもない)に留まってしまう懸念あり、だと私は思う。

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さて、そしてこのように「オリジナリティ」がエクセレントな編集・演出の意味合いを強めている文脈において、與那覇氏がこれと一対にして使用する「プロ」の語は、エクセレンスが表層的なもので終わらないための重し・戒めのようなものであるように思われます。

アマチュアはネット上でヴァーチャルな議論を(しばしば匿名で)闘わせているけれども、プロはリアル・ワールドで命のやり取りをするのだ、みたいな感じ。

アマチュアの兵器マニアはモデルガンを弄ぶけれど、沖縄の基地に駐屯しているプロの米兵は、指令があれば数時間後には音速の飛行機に乗って、どこかへ爆弾を落とす。プロの医師は、相手が天皇陛下であろうとも心を動かすことなく人体にメスを入れるし、プロの歴史家は、偽史と戯れるのではなく、リアルな歴史と現在に向き合うのだ、みたいな感じではないかと思います。

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私は、仮にこういう理解が的はずれではないとしてなお、そのような意味における「プロ」が、読者のドーパミン大量放出を誘発してしまいそうなエクセレンスを希求するのは、ちょっと危険ではないか、と思ってしまいます。それは戦場においてためらうことなく「敵」を殺す兵士の作法だし、どう演出されても恐いっす。

(『中国化する日本』の話者がどうしようもなく不気味に感じられるのは、そのせいではないかと私は思う。)

「中国化」の本そのものは、戦況分析+21世紀ニッポンの戦略大綱みたいなもので、すっと入ってくる読み物ですけれど、そこから扉を開けて「オリジナルな研究」へ足を踏み入れると硝煙の臭いが漂ってくるようなところがある。近代日本の陽明学の本も、靖国問題を入口にして、本編は大塩平八郎を手始めに、テロルへの至る思想を形成した人々の列伝になっており、東大時代は活動家であったらしい文藝評論家から、「動機オーライ主義」という軽やかなキャッチコピーを賜ったそうですし……。

與那覇氏としては、一度そうした兵士の覚悟みたいなものを放出しちゃいたかったのでしょうから、こういう本が出るのもしょうがないのかな、とは思いますが(いわゆる「一石を投じる」というやつですね、囲碁で相手の広大な模様のど真ん中に一瞬ぎょっとするように大胆なツケ石をして、相手は対応に困っているのだけれどもこちらは涼しい顔でお手並み拝見を決め込んでいる、みたいな)、銃後の市民が、彼の本を読んで脳内活性化されすぎちゃっても大丈夫なのだろうか、と心配になる。

あとで揺り戻しのPTSDに悩まされなければいいのですが、でも、若いってのは、こういうイケイケに乗っちゃうことなのでしょうか。

私には、年寄り向けに書かれた小津安二郎くらいがちょうどいい湯加減で、ゴクラクなんですけれど……。まあ、厳しいご時世なんですかね。

サルトルの実存主義とか、ポストモダンとか、西洋の最新思想が若者の脳内をトリップ・活性化させたのは大昔の話。「ウヨク」の危ない香りをライト感覚の合法麻薬として服用するのは、ロスジェネなお兄さんお姉さん世代のファッションで、今さら感がある。

「中国」が今はイイ感じだということでしょうか。生き馬の目を抜く風雲急な論壇事情、なんですねえ。

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

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「中今の思想」が、刊行から5年で一世代前に繰り上げられてしまうのですから、時間の流れというのは恐ろしい。

数ヶ月間は各種雑誌が「中国」の話ばっかりになって、数年後には色々な分野の論文テーマが大陸における戦争体験の話ばっかりになる……のだろうか。

でも、「中国化」の話が支持されるということは、「江戸時代性」の基礎体力みたいなところが今は落ちていて、そういう形で話題を瞬く間に陳腐化して、力を削ぐ日本のディスクールの「江戸時代力」が、いまはあまり上手く機能していなかったりするのでしょうか? 軽薄に騒がない「もの言わぬプロの兵士」がジワジワと各領域へ浸透して、「標的」が淡々と処分されつつあるのだとしたら、それは本当に大変力強いことですが。

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「バラ色の連帯」をしちゃうバカ学生よりも恐いのは……、ということですね。