個体識別マニア・寸評マニア

[コンクールや賞の審査ということについて最後に追記]

もし、良さと悪さ、美しさと醜さが、経済における収入と支出、借り方と貸し方のようなトレードオフの関係にあるのだとしたら、Aが良さを獲得することによって、その人と競うBの良さが減って、差し引きでBは(なにもしていないのに)Aが良さを増やしたことによって自動的に悪さが増える、というようなことになるのかもしれないけれど、常識的には、良さと悪さ、美しさと醜さの間にそのようなトレードオフの関係はない。

Aならざるものの良くなさ具合に言及することは、Aの良さを論ずるのに本来必要なことではない。

唯一、良さ(美しさ)を論じる文脈でAとBとを比較することに意味があるのは、「良さ」とは何かということを吟味しているときだと思う。Aは良い(美しい)が、対するBは悪い(醜い)。その差はどこにあるのか、比較によって明らかにしよう、というようなときだ。

そういう特別な文脈を設定することなく、AとBとが、あたかもひとつの価値を巡って争っているかのように語るのは、要するに、対立させなくてもいいものについて、対立を煽っているのだろうと思う。何が目的なのかは知らないけれど……。

(そしてAとBとを対立させて、仲を裂こうとする場合には、そのように強引に比較することが有効な作戦になるかもしれないけれど……。)

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Aは美しくて、Bは力強くて、Cは聡明で、Dは小憎らしくて、Eはおとなしくて、Fは鈍重で、Gは機敏で、Hは不気味で……という風に、少なくとも10か20くらいの形容詞を使い分けることができるくらいに、世間の人や個物は多様で多彩なのではないかと思うし、そうでなければ、たとえば音楽家が何十もの音楽を作ったりすることはできないだろうと思う。

そしてその10か20の形容詞を一本の直線の上にしかるべき基準で整列させるのは、かなり難儀するのではないかという気がする。

基準を2つにして、直交する二次元四象限に割ったとしても、はたしてうまくいくかどうか。

たしか、九鬼周造が「いき」の分析をしたときには三次元に「いき」とそれに関連する概念を配置して論じていたと記憶するが、せめてそれくらいは要るのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120218/p1

得意不得意はあって、直線的に考えたり、二次元座標で考えるほうが慣れているとか色々あるかもしれないけれど、世の中が立体で三次元なんだからしょうがない。

私たちはニジンスキーが演出した「牧神の午後の前奏曲」のように、平面にぺちゃんこに押しつぶされて生きているわけではないのですから。(ど根性ガエルのピョン吉くんは、必死に平面を突き破ろうとする姿がドラマになるわけで、ニジンスキー的な平面において、牧神は最後に欲望を自分で処理するしかなくなってしまう……。)

彼の名を一躍高めた「ばらの精」では、最後にニジンスキーが軽やかに部屋の窓から飛び出し、空間の仕切りを飛び越えたそうです。(大田黒元雄が生き生きと回想している。)その同じ天才ダンサーが、空間(三次元)から平面(二次元)へ舞台の次数を落として、その窮屈な場所から出られない牧神の自慰行為を見せるところからアヴァンギャルドがはじまったんですよね。

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関西のピアノのリサイタルの批評を何年も次から次へと書いていたときに、飽きるかと思ってやってみたら、案外、皆さんそれぞれで、毎回違う風に書くことができた。行って演奏を聴いているうちに色々なことを思いついて、つまらなかったり、退屈した場合でも、つまらなさの有り様や、退屈の所在は毎回違うわけだから、やっぱり、それについて書くと文章は別なものになる。

その感じは、毎日広場に腰掛けて、頼まれればその人の肖像画を描く、というのに近いかもしれないと思う。

そういうときに、「昨日の人はものすごく鼻ぺちゃだったけれど、それにひきかえ、この人はなんとスラリと鼻筋が通っていることか」みたいなことは思わない。単に、鼻が高いなあ、と思ったらそう書くし、でも、よくよく観察してみると、実は鼻が高いのに何故かそのことが目立たない顔立ちとか、色々なことに気付いたりするから、多様性はほぼ無限に続く。

少なくとも私は、最初からそんな感じだったように思う。

このように物事を見る人間が、評論家を何らかの二次元四象限に区分したときにどの場所へプロットされるものなのかということは……もし面白い分類があるんだった、是非教えてくださいませ(笑)。

(でも、ほんとに私は昔からそうなんですよ。オーディションで一日何十人続けて聴く、というのは、さすがに体力・気力の面で疲れますけれど、ある種の「個体識別マニア」なのかもしれません(笑)。だから、評論家の方々は、通常、短い個別評「しか」書く機会がないことを嘆かれるわけですが、私は、短い個別評「が」好きなんですよね。ぎゅっと凝縮して書けるとすごく嬉しい。変でしょうか?)

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[追記]

なお、念のため付け加えますと、コンクールとか賞の授与というのは、人や作品や業績に順位を付けるわけですが、あれは、世の中というのがそう簡単に「神の見えざる手」の働くほど素晴らしいものではなく、金持ち(文化・藝術ではリアルな経済格差と少し違った視点から「文化資本」という言い方をするほうが正確だろうということに最近の社会学ではなっているようですけれど)がどんどん金持ちになり、豊かな文化資本が「家系」に代々受け付かれてしまうので、状況をシャッフルするために、貧乏人で豊かな文化環境にないところでもがいている人を引っ張り上げる広い意味での福祉の施策だと思います。

つまり、貧乏人をバンバン上へ引き上げるために、ドライな基準を設けて順位をつけるのがコンクールであり、賞や名誉の授与のはじまりだと思います。いかにもヨーロッパのブルジョワが考えそうな仕組みです。

やっていることは、地面を掘り返して土台を埋めて高い柱を立てる土木工事に近いと思う。

で、そういう審査を頼まれたのであれば、今度はここぞとばかりに、バシバシ「採点」すればいいと思うのですが、自分勝手に「Aはいかにもダメで、Bはそれにひきかえ素晴らしい」というレトリックで語る人にかぎって、そういう場所に出るとモゴモゴと態度を明らかにせず、「私の藝術観」みたいなものを滔々と語るだけで、判断に積極的に参加したり、新しい視点を提示して局面を打開する、みたいなゲームをただ傍観していたりする。

あれはいったい何なのでしょう?

ひょっとすると、審査会が審査対象に名誉を授ける場であるというのはどうでもよくて、「審査する」という名誉があなたに授けられた、とでも勘違いしているのでしょうか? だから、審査員という名誉は欲しいけれども、他人を評価する「汚れ仕事」はしたくない、みたいな心理になっていたりするのでしょうか?

あるいはひょっとすると、心の底では貧乏人を引っ張り上げるなんてことはやりたくなくて、貴族社会のように金持ちがますます金持ちになって、文化資本を一子相伝で継承していくほうがいい、と思っていて、そのためには、コンクールや賞の審査などというものは骨抜きにしてしまうのが、「藝術と文化を愛する者」の正しい道なのだ、と思っているのでしょうか?

だとしたら、それはわたくしの信条とは真っ向から反対の立場だし、少なくとも私の考えでは、コンクールだの賞の授与だのといったことが、しょうもないしくみではあってもそれなりに機能していた最後の命綱みたいなものを断ち切る所業であると私には思われますので、今後同席することがあれば、審査員を引き受けておきながらサボタージュするかのような行動は糾弾されてもやむなし、と思うのですが、それでよろしいのでございましょうか。

(でも、順序立てて考えていくとそういうことになりますよね。困ったことに。さて、どうしましょう? 仕事は仕事なんだから、引き受けた以上、ちゃんと会議の議論に加わったほうがいいと思いますよ、これからは。)

文学賞の光と影

文学賞の光と影

賞や名誉というのは、欲しい人は本当に欲しいのだし、応募するというのは、そういう自分の欲望を天下へ公言することです。名前を晒してエントリーしている方々の覚悟を思えば、審査する側もその意気を真剣に「打ち返す」のでなければ失礼だと私は思う。ウジウジ、ジメジメするのが一番ダメ。そういうのを振り切ってみなさん応募してくださっているのですから。