大栗裕と仏教合唱 - 《歎異抄》と《「御文章」より》を中心に

今日、音楽学会のシンポジウムで話した原稿です。

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-nog20121125.html

(配付資料には大栗裕の仏教洋楽作品リストを入れています。現在見つかっているものは、おそらくこれですべて、と思います。)

学会は……、「音楽と宗教」というテーマは、魂のエヴァンジェリストな礒山雅先生が6年間つとめた学会会長を退任するので、退任記念学会ということだったようですね。

宗教というと、晴れやかな非日常のイメージ(美学の言葉で言うと、臨界点を越えた崇高に近いのでしょうか)がやはり強いらしく、そっち方面と音楽の関わりをお話される先生方が多かったようです。

私がお話した仏教のシンポジウムは、私のほかは、浄土真宗の教団で仕事をしているお二人と、御詠歌研究の方で、日常生活のなかに信仰があり、政治や文化と並んで宗教は普通にあるものだ、というスタンスだったので(大栗裕も京都女子大学に就職してそうなっていった)、そのあたりの温度差があったかもしれないですね。

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宗教は、思想(教義)や儀礼(それこそ晴れやかな非日常)とともに、人の集団の営みであって、しかも特に日本仏教の場合、人の死、と関わる傾向が強いわけで、そこには、人は死ぬものだ、という前提でどう関わるか、というところが強くある。

……と言うと最近の末木文美士先生みたいですが、

「音楽と宗教」というテーマで、死の問題があまり表に現れなかったのは、ちょっと残念だったかも、と思います。

御詠歌はお葬式の場で歌われる習俗が(特に関西では)根強くあるわけですし、大栗裕の仏教合唱曲では「御文章」の「白骨章」が重要だと私は考えて、お話をまとめさせていただきました。

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西本願寺へ行くときは、お寺のある堀川通りの日本離れした広い歩道を行くより、一筋東の油小路を歩くことに決めています。

「新選組!」でとってもインテリに描かれていた伊東甲子太郎の碑が建っております。

そして西本願寺の門から真っ直ぐ突き当たる辻のところには、仏具店に囲まれてこんな建物が。

本願寺の伝道所だった建物です。

せっかく仏教洋楽の話をするのですから、明治以後の西本願寺はこういう風に時代の変化を果敢に追いかける宗派だったのだ、ということを言っておくべきだったかもしれないですね。

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大栗裕に関しましては、彼が学校を卒業してから出入りしていたと思われる古市の映画撮影所があった場所のすぐ隣で連続講義をさせていただき、大阪市の図書館と大阪府のさいかくホールでお話をして、関西学院大学では学会のシンポジウム(大栗裕の話ではなかったけれど)と講演に呼んでいただいておりますので、今回、西本願寺で京都の大栗裕のお話をさせていただくことができて、生前ゆかりの「札所巡礼」(?)をひととおりできたのかな、と思っております。

南無〜、でございます。

ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団‐付録CD「ヨーゼフ・ラスカの音楽」 (阪大リーブル038)

ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団‐付録CD「ヨーゼフ・ラスカの音楽」 (阪大リーブル038)

幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)

幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)

阪大出版会二連発。会場の物販コーナーで売ってました。

四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで

四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで

御詠歌の発表のなかで紹介されていて、気になった本。

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

午前中のシンポジウムで、20世紀の音楽劇をジュネットで物語分析する、というのがあった。

でもシンポジウムでは、野平一郎さんが、「色々アヴァンギャルドな動きがあったけど、結局はタブーがなくなったということで、普通にオペラを書いても良いし、ムジークテアターをやってもいいし、ということになってるんじゃないか、今は」という趣旨の発言が一番生きた言葉だと思いました。

(どーぜ、大栗裕は、テクストにべったり貼り付いて、立体感のない音楽をやっとるわい(笑)。そのテクストへのまとわりつき具合が尋常ではないわけで、そのあたりにつきあうのが、昭和の日本の作曲を見ていく骨法だと私は思う。やってることは、文楽の大夫さんが床本を押し頂いて音遣いで脂汗をかくのと、実は本質的に変わってないと思うのです。)