カラオケとtwitter:閉じつつ開く、ということ

twitterというのは不思議なシステムで、もともと想定されていたのは駅の伝言板(昔はそういうのがあったんです)みたいなもので、当人同士だけがわかればいい短いメッセージボードだと思うのですが、皆さんが面白がって使ううちに、喩えるとしたら、ボックス形式になる前のカラオケバーに似たものになっているような気がします。

それこそ「若い人は知らない」と思うし、私も(その後すぐにボックス形式が主流になったので)1980年代半ばの大学学部生時代に1回か2回しか行ったことがないけれど(そしてそのような場で歌ったこともないけれど)、

それは、ちょうど結婚式場の披露宴会場みたいな空間構成で、数人から十数人のグループで行くと、しかるべきテーブルに案内されて、そこで居酒屋みたいに飲み物、食べ物を注文するわけだが、カラオケセットは、披露宴会場の新郎新婦席に相当するような場所の舞台に1つあるだけ。

各テーブルから出てくるリクエストに従って店が順番に曲を流して(もちろんまだ通信カラオケではなかった(と思う))、それぞれのテーブルから、その曲をリクエストした人が舞台へ出て歌う。

その姿は、当然、店の中にいる全員から丸見えなわけで、上手だと満場の喝采を浴びたりするのだけれど、ヘタクソだったとしてもツッコミは入れないお約束になっていて、通常は、歌っている人間と同じテーブル/グループの人間以外は、舞台を無視して飲み食い、おしゃべりを続ける。

よく知りませんが、おそらく、他人の歌を誉めるのはいいけれど、貶すのはナシ、原則として当事者以外は歌っている人間を透明人間のようにスルーする、という今のカラオケでも続いている暗黙の「お約束」は、あの披露宴会場みたいな空間で生まれて、今日へ継承されたんじゃないか、という気がします。

そういう「お約束」がそれなりに安定して成立しているのは、現在のボックスであれ、当時の披露宴会場であれ、空間が閉じていて、その場の全員が、歌う人と聴く人(=リアクションする/できる人)の役割の両方を兼ねているからだと思います。不作法に振る舞うと、それが自分へ跳ね返ってくるわけですね。

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さて、そしてtwitterは、カラオケみたいに歌いたいリクエストを単線処理するのではなく、今時のコンピュータネットワークですから、つぶやき投稿が各アカウントごとに並列で処理されて、さらには、他のアカウントの処理をモニタリングしたり、そこへ適宜リアクションできるようですが、

往年のカラオケっぽいと思う第一は、そういう風なそれぞれのつぶやきが、原理的には全体に丸見えなのだけれども、利用者目線では、自分とその相互承認したグループでのコミュニケーションが進行しているように皆さんが振る舞っていらっしゃるところ。

そして、不作法に振る舞うと、それが自分へ跳ね返ってくる、という前提で一定のやりとりの作法があるらしいところも、カラオケっぽいとような気がします。

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で、私はカラオケが嫌いですし(←クラシック音楽以外聴かない、という意味ではありません、あの空間で歌う、というのが私には無理)、twitterに参加する気もありませんが、

twitterがカラオケと違うのは、

カラオケは、ボックスの中で閉じていたり、披露宴会場みたいな昔の形式であっても、店の外からその様子はわからないわけですが、

twitterは、参加していない者にも様子が丸見えなわけですね。

(facebookは、外部に対して閉じているからカラオケ店っぽいけれど。)

いってみれば、公道から丸見えのオープンテラスの披露宴会場でカラオケ大会をやっているような感じがします。

(だから企業・団体・政党が広報にtwitterを使う、ということにもなる。)

私は、別に自分をそういう風な形でプレゼンしたい欲求をもってはいないので、何が嬉しくて中へ入るのか、ますます意味がわからないんですよね(笑)。

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若い頃のシェーンベルクは、独学の音楽修行をしていた頃、プラーターのカフェの楽団の演奏を庭の外でじっと聴いていたそうですが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120816/p1

twitterで自分たちの「コミュニケーション」を閉ざしつつ開く無意識は、オープンカフェのブルジョワ連中が、音楽を自分たちが私有しつつ、公開(展示・みせびらかし?)するのに近いのかもしらん。

そらまあ、庭の外に毎日同じ時間に同じ人間がやってきて、じっと中の様子をながめていたら、不気味かもしれないが、

そういう場所で遊ぶことを選んだのは君たちなわけだ。

ウィーンのブルジョワの流儀でいえば、傲然と無視するのが優雅なんじゃないかと思うが、成金でそういう作法が身に付いていない人間のなかには、つい、外部の視線が気になって、ぎこちなくなったり、逆ギレして、公道にいる人間に罵声を投げつけたりする人がいるらしい。

でも、そんなに怯えなくても、別に中へ侵入しようと思っているわけじゃないし、

こういうタイプの閉じつつ開いた空間というのは、そこへ入り浸って中毒になるとマズいのだろうけれど(そこだけが世界だと思いこむ、とか)、上手く使えば、それなりに役に立つんじゃないのかねえ。

中の人間にとってだけでなく、外の公道をうろついている人間にとっても。

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いずれにせよ、twitterというのはコンピュータ・ネットワーク上の無数の道具のなかのひとつで、今はたまたま利用している人が多いけれども、いつまで続くのか、よくわかりませんが、

閉じつつ開いたコミュニケーションの様態というのは、割合、一般性があるんじゃないか、とは思います。

音楽で言えば、ホールであれ、プライベートルームであれ、iPodであれ、外部に対して閉じた場所で楽しむ形が主流であるかに思いこむ向きがいらっしゃるかもしれませんが、

そういう形態が近代に特有というわけではないし、かといって、近代の音楽がもっぱらそういう形態だけになった、というわけでもない。

大げさに文化人類学して、ガムランや雅楽の上演の場は……、という話をしなくても、閉じつつ開いた場で音が鳴っている状態をいくらでも思いつくことはできるでしょう?

政治だって、国会議事堂にも、選挙の開票会場にも、民主主義の原則にしたがって傍聴席があるわけだし、もしかしたら、閉じつつ開いたコミュニケーションというものこそが、間接民主制のデフォルトかもしれませんよ。

資本の活動だって、商売でも非営利団体でも、必ず「監査」というのがあるわけです。

ま、そういうことです。

傍聴席から議場に声をかけたら、妨害行為として退場させられることくらい知っていますが、傍聴した内容が他所で一人歩きすることは、原理的に誰にも止めることはできないはずです。

(増田くんは、著作権問題を論じていた頃から、そういう情報の一人歩きへの作者の戸惑い、というところに微妙にこだわっていたみたいだけれど。)

考えてみれば、プロとアマチュアの「間」に自らの位置を見いだす大栗裕、という話とも、これはどこかでつながるかも。コンピュータ・ネットワークのコミュニケーションにおける「非僧非俗」?

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-nog20121125.html

私としては、そういうことを考えるきっかけを与えてくださった固有名に敬意を表して、今後この件については、

  • shinimaise, shinimaization コミュニケーションを閉じつつ開くこと
  • shinimaisability コミュニケーションの閉じ具合もしくは開き具合
  • imaisyndrome 閉じているものを開きたい、開いているものを閉じたい、という思春期の衝動(?)

と呼びたい気がするのですが、それはさすがに怒られそうなのでやめておきます。狭いところでコチョコチョやってないで、人生賭けて遊べばいいと思うんだけどなあ。