メディアはメッセージである:近衛秀麿編「越天楽」の研究が『音楽学』に受理された!

『音楽学』58/1号(2012年10月発行)に、熊沢彩子「近衛直麿・秀麿による《越天楽》の管弦楽編曲と1930〜40年代における演奏」という論文が出ているのを発見。

(昨年10月発行の学会誌に今頃言及するのは、会費納入が遅れて、今日ようやく原物を手にすることができたからで、他意はありません。)

邦楽器による合奏曲の海外での演奏を想定した管弦楽編曲の成立・演奏経緯を現存する楽譜・文献・録音の組み合わせで検証する作業、資料を取り扱う視点など、方法論としては、手前味噌ですが、わたくしが大栗裕の「雲水讃」のことを調べたレポートとほぼ一緒だったので、

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-un-sui-san.html

今の音楽学会はこういうのを受理するのだな、と、相変わらず下世話な言い方になりますが、あたかもコンクールや競技会で高得点を狙おうとする「若手」であるかのような目線で、「傾向と対策」を探るサンプルとして興味深く拝読しました。

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日本の洋楽を実証的に取り扱おうとすると、「遺品」として研究者がアクセスできるマテリアルは、たいていがこの論文で示されているようなものだと思います。

自筆譜が残っている場合もあるし、そうでない場合があって、それ以外に、どれがどういう「意味」をもつのかよくわからない各種演奏譜の束があって、そこには、必ずしも網羅的ではない(かもしれない)コンサートのパンフレット等が一緒に保管されており、あとは、これも必ずしも網羅的ではない(かもしれない)関係者や第三者の証言があちこちに散乱して、さらに、これらの資料とダイレクトにリンクするかもしれないし、しないかもしれない録音物がある。

おそらく、このような、どれがどのように「お宝」で、どれがどのようにそうでないのか、よくわからない「もの」の山を前にしてファイトが涌いてくるタイプの人が、今求められているのだと思います。

このような「もの」の山を前にして、自筆譜・生原稿を前にしてうちふるえる、という「オーセンティシティ」(ほんもの)のオーラに、ヒトとしての良識ある敬意を払いつつ、「真性」でない雑多な「もの」とか、自筆譜・生原稿に無遠慮に書き込まれたり、貼り付けられたり、いつの間にか付着してしまっている付加的な情報を「ノイズ」として捨てずに丹念に解読する冷静さがないと、こういうタイプの「もの」の山は、何も語ってくれない。

それは、楽譜をみると、すぐさま、それを「音楽」として読み始めてしまう(音楽の「なか」へ吸い込まれてしまう)という趣味的・偏愛的な態度とはちょっと違うし、そうかといって、大量の「もの」の整理と管理を効率よくこなす実務能力だけでは足りないところがあるような気がします。

歴史学ではおそらく当たり前のことなのだろうと思いますが、数としても、制度としても、この種の資料の取り扱いのイロハができる人材を安定的に確保できるかどうか、というところが、音楽研究の「兵站」なんじゃないのかなあ、と思うんですよね。

過去150年の洋楽であれ、それ以前の1000年の日本音楽であれ、「もの」はたくさんこの島のあちこちに残っているのですから、活用しないのは勿体ない。

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で、歴史研究の方法論と関連づけると、20世紀の歴史学は一回的で画期的な「事件」の記述から、そのような「事件」によって分節される「状態」の記述に力点を移していたような印象がありますが(政治史、経済史、社会史などは特定の時空に機能しているシステムを記述しようとしますし、アナール派には、特定の時空におけるヒトの心の状態を探ろうとする心性史の傾向が含まれていたと言われたりする)、

作品論も、作品の成立史に力点を置くと「事件」の記述に傾く一方、上演・録音に視野を広げると、ある作品がある時空にどうやって存立していたか、という状態記述に近くなる。そうすることで、歴史学の諸成果との関連づけがやりやすくなるし、一時期なんでもありの相対論へ傾きがちだった受容史・聴衆論を、ことの発端である作品の成立史とを関連づける道も開ける。

そういうことを射程に入れると、実証研究の新しい使い道が見えてきたということで、単なるマニアックな詮索ではない方法論上の意義、ということも言えそうな気がするのです。

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ただし、こういうタイプのレポートが学会誌で採用されるのだ、ということになると、潜在的にはこの種のレポートを生産しうる「ネタ/鉱脈」は、現状で相当大量にあるはずですから、うまく人材が育てば、早晩、誌面があふれてしまうのではなかろうか、という気もします。

(少なくともわたくし自身は、こういうのだったら次々書けそうだけれど、キリがなさそうだし、せいぜい紀要レヴェルなんだろうな、と思っていました。)

編集後記で、いずれ学会誌への「特集形式」の導入も検討している、との記述がありますが、それは、音楽学会の発足以来の方針の大転換ですからねえ……。

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/msj.html

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「越天楽」論文が載ったのはたまたまであって、機関誌編集委員会の考える「特集」のイメージがどういうものなのか、まだわかりません。

いずれにせよ、「特集」というからには、こういう研究の方法と領域がある、という旗を立てる行為に学会が乗り出したいということだと思いますが、そういう行動のメディアとして学会誌が適切なのかどうか。

あるいは、例えばアンソロジー的な書物を別立てで作るとか、色々考えられそうですし……、本当に「特集への意志」があって、旗を立てたいアイデアがあるんだったら、既存の手持ちメディアでやりくりするだけでない可能性も検討していいんじゃないのかなあ、という気がします。

東洋音楽学会は、学会が編集主体となって本を出していた時期がありますけれど、音楽学会も、そういう可能性を探れないのだろうか。

なんなら、デジタル版でもいいじゃないですか。

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学会誌という「本丸」をいきなりいじるのは、どこかしら、憲法改正を綱領に掲げる政党みたいな感じがしないでもない。

憲法を「変える」という行為を方針にするのは妙な話で、どこをどう変えるのか、を世に問うてくれないと、「だったら、こういうやり方もあるんじゃないか」という現実的な話ができない。

学会誌の「傾向と対策」を解析したくなってしまうのは、「改革」のムードだけを臭わせながら、具体的にどこがどう問題だと認識しているのか、メッセージが一向に出てこないからだと思います。

で、とりあえずの具体的な「対策」としては、

全国津々浦々から、「越天楽」が載るんだったら、オレはあれを出す、ワタシはこれを出す、といって、実際に投稿が殺到する状態を作り出してしまうのが、いいんじゃないかと思います。

だって、毎年全国大会にあれだけたくさんの発表がなされているのに、機関誌の発行回数が減って、掲載論文が増えていない、というのは、いかにもバランスが悪いですから。

口頭発表は、たくさんやってくれたほうがお金が集まるから敷居を低くしており、学会誌掲載は、お金の持ち出しになるから数を制限する、みたいなエコノミーがあるのだとしたら、それは、「学会誌の質の維持」に名を借りた一種の搾取だと思うし……。

(学会にふさわしい「質」の論文を出せる人材がそれだけの数しかいないのだとしたら、全国大会の盛況は、質の低い発表を、資金集めのために許している「水増し」だということになってしまうし、全国大会発表レヴェルの内容を、学会が「価値あり」と本当に認めているのであれば、同水準の投稿を、どれだけ金がかかっても活字化する、という態度を見せなければ、二枚舌だ、ということになる。)