弔辞風に

日経夕刊に東京クヮルテット評が出たようです。

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わたくしは、このブログで明らかなように、酸いも甘いも噛み分けて、花も嵐も乗り越えて人と末永くおつきあいする、ということができない性質ですし、社会的に最底辺の地位からいっても、おそらく一生、どなたかの友人・知人として弔辞を読み、追悼文を綴る機会は巡ってこないと思いますので、

かわりに、44年の演奏活動の最後を迎えた団体様について、今回は、弔辞のような気持ちで作文させていただこうかと思った次第です。

とはいえ、1969年結成のこのグループの一番古い記憶は、テレビ(オーケストラがやって来た)で武満徹の「ア・ウェイ・アローン」を弾いたのを見たときで、1983年1月9日放送らしいので、既に第1ヴァイオリンはウンジャンに変わっていますし、CDをいくつか聴いた以外に、実演は以前に京都でコペルマン時代にショスタコーヴィチ等を聴いて、そして今回ですから、そんなに「思い出」があるわけではない。

まあ、でも、名前だけは知っていて、実演をちゃんと聴くのはこれが最初、という人だっているはずだと信じて、あくまで、今現在の演奏を聴きながら、ここから類推するとかつてはこうだったんだろうなあと想像する、というスタンスで書かせていただきました。

結果的に、地上の2点の距離と太陽の角度から地球の円周を計算する、みたいな論法になってしまいましたが、でも、限られた情報から色々なことを想像するのは、大金持ちで聴きたいものをいつでも何でも聴ける人間などほとんどいないのですから(オペラ・ジャーナリズムは世界の果てまでなんでも観に行く人たちで成り立っていてあれは別物……)、そしてだからといって、同じレコードを何度も反芻して暗記する、というだけでは悲しすぎますから、あれこれ想像を巡らすのも、平民が音楽を聴く楽しみの大きな部分を占めているのではないか、と思っています。

そうやってあれこれ想像をめぐらしておくと、あとで、ロケットが実際に宇宙へ行ってもってきた情報で検証するみたいに、色々な本や音源と照合して、「やっぱりそうだった」とか、「ああ、これは想定していなかったなあ」とか、発見や更新のドラマも生まれる。

「何でも聴ける全能感」など神ならぬ身には無理なのですから、手持ちがこれだけしかない状態をどこまで楽しむか、ではないかと考えております。

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話はちょっと逸れますけれど、古楽やピリオド・アプローチというのもそうで、私は、実際に楽器を修復・復元したり、古い奏法を資料で掘り起こしたりする以前の演奏(19世紀や20世紀前半の)は様式感ゼロの酷いものだった、というのは、今を立派なものと見せるための誇張(新しい楽器(もの)と情報を持っていることを誇示するちょっと恥ずかしい見せびらかし)だと思っています。

古い演奏でも、ちゃんとした奏者だったら古典派音楽ではヴィブラートは控え目で、ダイナミックレンジはそれほど広くないし、鍵盤楽器をガンガン叩いて弾いたりはしてません。(フェドセーエフの大編成のハイドンは、そういう昔懐かしい「良き趣味」を感じさせる演奏だった。)

なぜそういう「神通力」が可能になるかというと、楽譜を見たら(多少後世の編集の手が入った不正確なものだっとしても)、まともな判断力のある音楽家だったら、少なくとも、これはなんか違うな、こんな譜面が書かれていたということは、何か今とは違う事情があったのだろうし、その事情とはおそらくこういうことだろう、と想像をめぐらすことができる。

そして、もちろん、実際に楽器や文献に当たらなければわからないことはあるにしても、それなりに手順を尽くした推測は、そんなに大きく外れるものではないし、逆に言えば、ロマン派以後の音楽と古楽の違いは、現代英語をある程度知っていたらシェークスピアの英語も大づかみには読める、その程度の違いだと思っていいような気がします。日本語だって、文楽の大夫の言葉とか、だいたいわかりますやん。(もちろん、どこまで歴史的な情報に照らして古楽/シェークスピアを精読できるか探究することは、それはそれとして立派な挑戦だと思いますが。)

西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

そういう風に「情報」が乏しくても良い演奏をできてしまえた音楽家たちの機微を拾う構えがなくて、19世紀の楽譜の「変」に見えるところをサーチしてあれこれ言おう、という姿勢が、私にはとても安直に思えた。(当時の価値観ではそうならざるをえなかったのだ、みたいな論法で情けをかけられても、19世紀は救われない。私は渡辺裕の「歴史認識」に根本的な疑問がある。)

フォルテピアノの実際の音にCDや実演に触れたのは、モーツァルトやシューベルトの譜面を穴の空くほど読んで、あれこれ弾いて試して、これはこんな感じの音で弾かないとおかしいよなあ、といろいろ考えたあとだったですが、予想外の響きに驚いたというより、「やっぱりそうか」という気持ちのほうが強かった。

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人間は、与えられた情報が乏しいなら乏しいなりに、ジタバタしながら色んな想像をめぐらして、当たらずとも遠からずのところへたどりつく。そういうのを「考える力」と呼ぶのがいいのか、環境のアフォーダンス、と呼ぶのがいいのかは知りませんが、批評は、普通のお客さんと一緒に客席にすわって聴いた感想を言うのが仕事だから、どうしてもそういう部分が残って、だから、確証はないけれどもきっとこうだろう、という「賭け」の要素が文章に入る。(オレは何でも聴いて知っている、すべてお見通し、という態度で論評するのは、批評としては邪道で、一般人の立場で、コモン・センスで書くのが批評の基本だと、私は信じているし、批評家のなかでそういう認識はそれなりに浸透しているような気がします。「批評家は演奏ができもしないのに偉そうだ」という定型の悪口がありますが、本当にそんな偉そうな批評家、実在しますか? もしいるとしても、声の大きい特定の少数の勘違い野郎が目立っているだけ、もしくは、気に入らないことを言われた逆恨み、というケースが大半ではないだろうか。まあ、唇を噛みしめながら(笑)、日々原稿を書くのみですが。)

そこが、実際に関係者に会って取材するジャーナリストとも、裏側でその公演を実際に製作している主催者とも違うし、既に獲得された知識・枠組みを手元で参照しながら新たに与えられた情報を位置づけていく学問とも違います。そういう人たちから見たら、「何も知らないで踊らされてるよ、プッ」みたいな、絶対に先手を取ることの出来ないアホなポジションを甘んじて受け入れる仕事なわけですが、

人間は、全能ではないんだから、そういう風に生きてるよね、ということなのだと私は思う。

だから、唐突に壮大な話になってしまいますけれど、批評/批判という態度が啓蒙主義の時代(ということは「天賦人権」という考え方が出てきた時代)にせり上がってきたのは、偶然ではないと思う。

「こいつバカじゃねーの、こんなの、オレでも言えるよ」「だったら書いてみろ」

みたいにワーワー言い合う情けない人間観が批判・批評のある世俗的な風景で、そういう状態のほうが、声のでかい/強い奴の前でみんな黙るとか、言論が精密機械やデジタルなデータ列のように整然と効率的に並んでいる、というような状態よりも、めんどくさいけれども少なく悪い、というのが民主主義というやつなのでしょう。

だから、そこのところの最低限の尊厳をなめくさったようなことをされたときだけは、相手が誰であろうと殺意を持って怒ります。(←結局、この話になってしまった、すみません。でも、これって、まともに人と向き合おうとしたら、当たり前のことですよね。「関西はライターが不足しています」とか公言されたら、あなたが編集しているものに寄稿している人の立場がなくなる(ワタシは寄稿してないので、余計なおせっかいかもしらんが……)。だって、そんなことおおっぴらにいわれたら、今書いてるオレは/ワタシは、人材不足で本当は誰かもっといい人がいたらいいのに、と内心で不満タラタラに思われながら仕事を恵んでもらっているのか、ということになるやん。それは言うたらアカン。人権蹂躙や。東京やニューヨークやったら、人が入れ替わり立ち替わりぎょーさんおるから、それでええんかもしらんけど。そして教育熱心で文化への関心が高いと言われる北摂に今ではグローバル企業の転勤組な方がたくさん住むようになって、東京以上に大阪のほうがドライでビジネスライクかもしれない(だから橋下を気軽に持ち上げておいて醜聞ひとつで平気で地面にたたき落とす)という説があるにしても……。)

川端康成伝 - 双面の人

川端康成伝 - 双面の人

北摂の立派な新築高層マンションにお住まいの皆様! あなたの街の一番肝心要のところは、こういう旧家、「地の人」ががっちり握って、ぎょろっと睨みをきかせているのです。基本はとても古い土地柄です。

(虎谷書店をみんな「とらや」ではなく「とらたに」と呼んでいるので、ルビが違うような気がするし、茨木市は淀川に面していない。淀川の南を走る京阪電車の沿線ではないと思います……。それと万博で開発されるまでJR茨木駅周辺は本当に何もなかったらしいので、茨木中学時代の川端が買い物をしたりして歩いたとしたら、駅周辺というより、虎谷書店などがあった商店街のあたりではないでしょうか。本人の回想がそうなっていないとしたら、私の思いこみ・勘違いかも、ですが……。)

「忌憚のないご意見」は、いちいち言われなくても必要なときには表明するし、必要ないときは別の種類の意見をいいます。こいつは、そうやって、表面的な決まり文句でその場しのぎにあしらっておけばいいのだ、とそちらが態度表明するのであれば、こちらも今後は、その場かぎりの最低限のことしか言わない。それだけのことです。そうやって、人と人の間がどんどん乾いていくのは、私にとって不愉快であっても、そうやって余った「潤い」を舞台上に回して、公演の「見た目」を少しでも美しく飾るやりくりをするのが興行師というものなのでしょう。

バックステージの「カサカサ感」は、どんなに隠しても、「限られた情報からジタバタと色々なことを想像する」という人間の特性によって、結局は探り当てられてしまうものだ、というのが私の立場ですが、そんなことはない、という立場もありうるのでしょうから、やればよろしい。

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東京クヮルテットのアンコールで、磯村さん(でしたよね?)が、「大阪に特に思い出は……ないのですが」と切り出したのはもちろんジョークで(受けてなかったけど)、1972年の凱旋が大阪だったわけですし、日本でやるなら大阪から、ということを最後まで通してくださったんだと思います。

そんな「男気」(?)を見せられたら、信じられない貴重な贈り物を頂いてしまったようなものですから、応えなきゃダメっしょう。

そしてそれは、彼らに場所を貸したホールが偉い、とか、そういうことではない。

音楽は、等価交換の経済とは違う、贈り物がぐるぐる回っていくような互酬性とか贈与経済とか呼ばれる時空に、今も少なからぬ部分が属しているはずです。そしてそういうところでは、「オレの手柄だ」とかいって、胴元がしゃしゃり出てはいけない。

たまたま今は、そういう贈り物のループが自分たちのところにもやって来る巡り合わせである、ということに過ぎず、むしろ、静かに感謝すべきことのはずです。

「金は天下の回りもの」

というのは、そういう意味だと思う。グルグル回っているものを、ガバっと懐に入れてループをせき止めると、そこですべてが終わってしまう。

(保険事業だって、そういうことを土台にできてるんじゃないのかなあ。往年の良くも悪くも「名高い」関西の音楽プロデューサー、野口幸助さんは、おそらく関響時代に歌舞伎の松竹と仕事をしたりするなかで色々なことを習得したんじゃないかと思うのですが、今は役所に大量の書類を提出しつづけないと「公益事業」が成り立たないから、どんどん変な発想に蝕まれてしまうのかもしれず、だとしたら、可哀想な時代ではあるのかもしれませんが。)