西洋化とスノビズム

靴屋説
18世紀初期のケンブリッジ大学において、「大学内に出入りする大学とは関係のない人々」を指す学生たちの隠語として「靴屋(snob)」が使われており、これが語源であるとする説。
スノッブ - Wikipedia

「西洋=宗主国/東洋=植民地」の構造を背景に置くと、「西洋内に出入りする西洋とは関係のない人々」は「靴屋(snob)」かもしれない。

一時期の民族音楽学者の「西洋中心主義批判」は、古いタイプの音楽学者や音楽好きの文化相対主義への認識が不充分であることの批判を越えて、「西洋に出入りしたがる日本人はスノッブだ」があったと思う。それは、ちょっとトホホ感のある泥試合だった気がする。(この議論において、そんな日本人を「スノッブ」と見るかもしれない西洋人の目(←実在するかは不明な「まなざしの地獄」系の事案)に、より強く依存していたのは、西洋を研究する側ではなく、諸民族の相対主義を標榜して西洋研究を批判する側の人たちだったのだから。)

まあしかし、ここまでの話はまだいい。図式をすっきり見とおせる。

「日本におけるクラシック音楽=メインカルチャー/ポピュラー音楽=サブカルチャー」の構造を背景に置き、さらにそこに、「西洋=宗主国/東洋=植民地」の構造をかけあわせてはじめて、「クラシック音楽に出入りする奴ら」は「ことごとく」「靴屋(snob)」だ、シット、ファックン、ジーザス、ゲロゲロピー、が成立する。

一時期のポピュラー音楽学者の「クラシック音楽中心主義批判」は、古いタイプの音楽学者や音楽好きの現代文化研究への認識が不充分であることの批判を越えて、「クラシック音楽に出入りしたがる日本人はスノッブだ」があったと思う。それは、副作用の大きすぎる議論だった気がする。

この議論は、そんな日本人を「スノッブ」と見るかもしれない西洋人の目(←実在するかは不明な「まなざしの地獄」系の事案)が内面化されてしまっているとしか思えない。テメエが一番スノッブじゃねえの、と言われ、「その通り、成り上がりサイコー!」と宣言するのはハッピーなのかどうか。

そんな騒ぎをよそに、今でも貴族は貴族だし、靴屋は靴屋であり続けている。そしてどうやら、今現在、部族間紛争が最も熾烈なのは、貴族と靴屋の間ではなく、靴屋と「ゲロゲロピー系成り上がり」の間。西洋大好きなスノッブAと、成り上がりサイコーなスノッブBの間の、ほとんど違いがよくわからないところに境界線を引く不毛な闘いが「まなざしの地獄」スタジアムで闘われている気がしてならない。互換性があって、オセロの白黒のように容易に反転可能だから、よけいに反目する、そういうゲームか?

いつまでやるんだろう。

でも、わたくし如きですらそんな風に考えるということは、たいていの人がそろそろ飽きて止めようと思ってるのかな。事実40歳を過ぎたあたりから、オッサンたちは順番にゲームを降りているようだし、若い人たちには、ゲームの降り方にこそ注目していただきたい。

他山の石以て玉を攻むべし。