気になるピアノ曲は楽譜を買って自分で弾くのが安上がり

モーツァルトのケッヘル一桁台の曲は、普通にそこらの楽譜に入ってます。全音や音友の普及版を買って、自分で弾くのがいい。小学生でも弾ける真っ白の楽譜。ブラバン少年がガブリエリを吹くより数十倍簡単です。

(かつて井上直幸も、NHK「ピアノのおけいこ」初級編の教材に取り上げていた。モーツァルトがクラシックの大作曲家のなかで特別な位置を占めるひとつの大きな理由は、最初期から最晩年まで、どの時期の曲も全部、たどたどしくてよければ、バイエル+α程度の技量で、家で自分でピアノで弾けることだと思います。バッハやベートーヴェンは晩年の曲とかフーガとか、素人には簡単に手が出せない時期・ジャンルが含まれるし、ロマン派以後は、ほぼ全部、譜面を眺めるしかなくなる。だから逆に、モーツァルトが好きな人は絶対ピアノを習ったほうがいい。)

みそ汁は、ホテルオークラで注文しなくても、ミソとニボシ(今ならパックもある)をスーパーで買ってきたら作れる、それがモーツァルト、ということです。

楽譜を見たことある、弾いたことがある、という人に聴いてもらったほうが、演奏者も「猫でも音が出る楽器」でどこをどう工夫しているのか、つぶさにわかってもらえて嬉しいはずです。(やっぱり一流料亭のすまし汁は違うわ、かもしれないし、なんだ、こんなもんか、かもしれないし。技量や経験に差はあるとしても同じ土俵に乗っている意識、「公衆(パブリック)」の基礎はそこだし、モーツァルトが、かなり奇形的な育ち方をしているけれども啓蒙時代の人だというのも、そこ。)

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ヒストリカルなピアノが18、19世紀の作品を演奏する上で啓発的な、独自の意義をもつ楽器なのは、既に映画「アマデウス」(1984年←この映画は蝋燭の照明を使うほど歴史考証にこだわったのに、なんでオケがマリナー&アカデミー管なんだと言われたりもした)の頃から知られているのに、30年経った今、クラヴィコードよりは知られているかもしれないけれど、チェンバロと比べるとあまり普及しているとはいえないままなのはどうしてか。

ひとつは、この時期の楽器は「ヴァージョンアップ」が激しすぎて、1台持っていてもツブシが効かなくて、需要に限界がありそう……ということだと思いますが(ちょうど往年のアタリ社のコンピュータを持っていても出来るゲームが限られるみたいに)、

もうひとつは、「楽器は消耗品だ」という認識で所蔵・運用されていないからだと思う。

ゴッホの「ひまわり」は、適切な状態で保管しておけば、人に見せようが、倉庫にしまっておこうが価値が保たれますが、マリー・アントワネットのチェンバロやベートーヴェンのフォルテピアノは、弾かないで置いておいたらどんどん状態が悪くなる。ちょこちょこ手を入れながら使わないと、持っていても仕方がないんですよね。

(インマゼールがベートーヴェンを弾いて、1楽章の途中でよほど状態が悪かったのか一度ひっこんだのは、どこのホールでやったときでしたっけ……。)

「貴重品のご開帳」方式ではなく、非公開でもいいから音大生にレッスンで安価に(もしくは弾いてくれたほうが有難いということで無料で)使わせるとか、そうしないと逆に勿体ないと思う。

日本の音楽ホールが、所蔵する鍵盤楽器を「宝物」扱いして、使ってナンボの感覚がなさすぎる、という話は現代音楽花盛りの頃からずっと言われてますけどね。

(内部奏法をやると楽器の状態が悪くなる、と信じられているけれど、その程度のことによる変化を検知できるピアニスト、そういう種類の変化が演奏に決定的な差をもたらすような演奏スタイルを実現しているピアニストがどれだけいるか、もしいたとしても、そういう人は最初から誰が使ったかわからないホール備え付けの楽器は使わないだろう、という話であって……。)

フォルテピアノの出現は、そのあたりの妙な運用慣習の見直しにつながらないとおかしいと思うんですよね。まあ、みんな言わないだけで、思ってることですけど。

ヒストリカルな鍵盤音楽の展開が最近ちょっと停滞している感じなのは、そのあたりのすそ野が広がらないからだと思います。もう、ただありがたがってるだけの時代ではないはずなので、妙な展開にならないことを願いたいですね。