メモが2倍

[追記:何かすっきりしない感じが残ったとしたら、作り手側が想定しているストーリーを追いかけきれない部分がどうしても残らざるを得ないのと、もうひとつは、「よーわからんけど、何かあるんだろう」なのか、「上手くいってない」なのか、決めかねて安心できないところがあるからだろうと思う。そしてそうなるのは、全体が「マジメ」で、スコンと抜けるパロディ、あるいは、観客を圧倒する強いイメージ/メッセージになってないからでしょう。あとは批評に書きます。]

朝、ひとつ仕事をしてからびわ湖ホールへ。「ワルキューレ」2日目で、観ながらとったメモは1日目の2倍。それだけ観るところが多いと思ったからですが、1幕の後半は、あまりのことにメモどころではなくなってしまったので、内容は頭のなか。よくできたお芝居でした。

(最後に最初と同じ場面に戻るのは、時間を巻き戻した、とも言えるけれど、ヴォータンがあっちこっちに愛人がいて、一難去ってまた一難。ジークムントとそっくり同じようなのが、またやってきた、ということでどうでしょうか。もしくは、神様ですからワルハラは複数のパラレルワールドとつながっていて、もうひとつの世界でもう一回やり直す、呪われた神様たちは、そういうのを延々と繰り返しているのだ、とか。これなら、そういう複数の世界の無限の循環みたいなものを丸ごと終わらせるのが、次のジークフリート〜黄昏だ、ということになって、つながるかも……。

いずれにしても、「読み替え」も流派が色々あるなかで、コンヴィチュニー・メソッドで解読しやすいパターンの舞台だったかな、と思いました。ジークムントとジークリンデの二人だけは、客席に向かって語りかける場面があって、この二人だけは「わたしたち」の仲間なんだ、みたいな風にやっていたり、物事が基本「女性たち」によって先へ進むところとか。)

P. S.

『音楽の友』今月号に8月のコンヴィチュニー・オペラ・アカデミーのレポートでました。

一箇所訂正があります。

  • 真ん中の段:× ヤンママ風の若いパミーナ → ○ ヤンママ風の若いほうのパパゲーナ (パパゲーナが2人いて、その若い方、の意味です。)