「疎外論」のブーツで背が伸びる?

20世紀の「新音楽」が「現代社会(←とは何なんですかね?)の矛盾を鋭くえぐる」、とまとめると何かを言ったような気になる、というのも、「背伸び」の感触があるよね。(ビュヒナーは19世紀半ばの人だから、時代背景はベルクよりマルクスに近いんだけどね。)

マルクスにおいて第二段階、共産主義のイメージは第一段階、社会主義のそれより(実践的ではもちろんないが)ヴィヴィッドである。つまりマルクス主義というのは実践的政治政策思想と言うより現世拒否的な(そして、そうであることによって逆説的にも現実の秩序と馴れ合う)宗教思想と言ったほうがいいような構造をしているのである。(275頁)

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

↑マルクスの章が長くてまだ読み終わりません。

そして人種・民族問題とか、フェミニズムとか、多くの「社会思想」が、議論を短期戦略と究極目標の二段階に分けることで宗教的なユートピアを手の届かない未来として差し出し、理論として最強に強まってしまうマルクスの語法に似たものとして組み立てられて、実際的には、それが現状に甘んじて生きる苦しみを和らげる「モルヒネ」の役目を果たす(→ドラマにおいては、本編でエグい「リアル」を見せて、最後に、手の届かぬユートピアの「光」を暗示して終わるのが定番)。それがハイ・アートでもエンターテインメントでも、おなじみの20世紀の風景だったと思うんだけど、「今」はそれを更新できているのかしら。新作評で知りたいのは、そこだ。