本当はきな臭いドラッカーのオーケストラ組織論

[かなり書き直して改題]

ドラッカーとオーケストラの組織論 (PHP新書)

ドラッカーとオーケストラの組織論 (PHP新書)

「非営利の機関は、人と社会の変革を目的としており、固有の使命のために存在する」

大げさにいえば、オーケストラは演奏という「固有の使命」のために存在し、音楽を通じて「人と社会の変革」をめざす。著者が言うように、その価値を心の底から信じるかどうかが、これからのオーケストラの死命を決すると言ってもいい。

http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnculture/20131111-OYT8T00603.htm?from=tw

オーケストラへの力強い応援記事ですが、ドラッカーの引用の解釈は読み違いのような気がする。(ここで紹介されている新書も、引用元のドラッカーも見ていないので、私の方が間違っているorドラッカー&山岸さんに過剰な期待をしてしまっている可能性は残りますが。)

たぶん、「固有の使命」は、個々の機関の明示的な目的(オーケストラであれば「音楽の演奏」)を指すのではなく、直前にある言葉、「人と社会の変革を目的する」の言い換えじゃないかと思う。つまり、

「非営利の機関は、人と社会の変革を目的としており、人と社会を変革するために存在する」

と言っているのだと思う。

[続報]

と、上の記事を読んだときは、漠然とした違和感をてがかりにそれくらいしか推測できませんでしたが、当該書籍を入手して、少し事情がわかってきた気がします。

ドラッカーの名を掲げている割には引用が断片的ですし、著者ご自身の実務経験などを踏まえたオーケストラ論とドラッカーは、実はあまり上手く噛み合っていないような感じがするのですが……、

とりあえず、

「非営利の機関は、人と社会の変革を目的としており、固有の使命のために存在する」

は、とにかく非営利機関というものは漫然と存在してはいかんのであって、「人と社会の変革」という「目的」があり、その「目的」から導き出された「使命」を設定することで、「使命」の達成度などをプロフェッショナルにマネジメントせねばならん、ということのようです。

で、どうやら、この人は政府(国家)も一種の(そして究極の)非営利機関だと考えているらしく、非営利機関としての政府(国家)が営利団体のうごめく「市場」に介入するマクロな状況においても、経営者・管理者(自分では実務に携わらない)が団体・機関を統轄する場面においても、そのような自ら直接は営利を生み出さず、実務に携わるわけでもない存在の介入は、プレイヤー個々の成果の総和以上の成果をもたらし得るはずだし、それを目指さねばならない、と考えているらしい。

そしてそのようなヴィジョンを具体的にイメージさせるための比喩として、ドラッカーは、しばしば、オーケストラを引き合いに出すらしい。「指揮者」という、楽器をもたず、自分では音を出さない存在が介入することで、個々の楽器奏者の総和以上の結果が生まれる。政府(国家)の経済政策や、団体の経営・管理・マネジメントもそーゆーものでなければならず、非営利機関というのは、そのような、自らが利益を生まない活動に特化していることによって、経営・管理・マネジメントの諸問題がむしろ集約的に現れる、と、こういう話になっているようですね。

オーケストラ音楽が文化の中心にビルトインされた第一次大戦前のオーストリア帝国(自意識としては「大ドイツ」の盟主)に生まれつつ、だらしなく崩壊した実在の帝国を見限り、移民の人工国家アメリカに期待をかけて、彼の地の各種機関・団体の経営術・マネジメント術に、「そうであり得たはずのハプスブルク帝国の精神」を注入している感じがします。

(そしてオーストリア帝国の末裔ドラッカー先生の考え方を採用したのが、誰あろう大英帝国を長期低迷から再浮上させたサッチャーだ、と言われているそうですから、「帝国の思想」の系譜が20世紀にも脈々と受け継がれていたことになりそうです。)

経済学は、所詮人間は欲得で動く、という矮小な人間観から出発して、それだけでは立ちゆかない限界まで話を煮詰めて始めて倫理や正義の問題を出す印象がありますが、経営論は、むしろ世界観や人生論の原理原則を立てて、そこから具体論へ降りてくる構成になるようですね。オーストリア帝国政府高官の息子の知識人ドラッカー大先生のお考えは、その最右翼のような印象をもちました。

楽都ウィーンの光と陰

楽都ウィーンの光と陰

ペーター・フェルディナント・ドルッカー(←ドイツ語読み)とウィーン、のお題で岡田暁生先生にエッセイを依頼するといいのではないだろうか。1909年生まれのウィーンの成功した富裕ユダヤ人がナチスを避けてアメリカへ行ったわけですが、山岸さんが引き合いに出す1882年生まれで27歳上のシュテファン・ツヴァイクより、1897年生まれのコルンゴルトのほうが、まだしも年齢や境遇は近いかも……。

だから、ぐるっと一周して、結局オーケストラは「音楽の演奏」が使命になるかもしれず、読売の論説は正しくドラッカーの思想を汲んでいると納得できましたが(無知な疑念、失礼しました)、その場合には、狭義の経営論のコセコセした話の前に、「何故、音楽をするか」の「目的」、堂々たる大義名分を旗として掲げていなければいけないことになる。(そしてそこまで読み込んではじめて、これが読売新聞の論説にふさわしい締めだったのだ、ということが見えてくる。高い志をもって、社会を変革する、その筋道に沿って高潔な音楽を奏でるのがオーケストラの使命なのですね。)

そしてたとえば、国内最古の歴史と最高の格式を誇る団体であれば、「我が○○交響楽団は、我が国の国力・文化力の象徴であり、内外に我が国の国力・文化力を知らしめることをその目的とするのであり、我が楽団の存続・発展とは、すなわち我が国の文化の発展ならびに国際社会における我が国のプレゼンスの向上そのものなのであ〜る」と言えるかもしれないけれども(そのように誇らしげな存在意義をもち、それにふさわしい「誇らしげな音」を出すオーケストラが各国にひとつはありますよね)、

そうじゃないところは、個々にもうちょっと狙いを絞り込んだ「目的」と「使命」を立てることになるのでしょう。

(「我が部隊は、大阪城北東を拠点に、府下北部の肥沃な後背地からの幹線鉄道による安定した補給路を確保しつつ、従来未開拓の市内東部方面に順次浸透を図る計画であります!」みたいに宣言して作戦行動を開始する、とか、そんな感じでしょうか、たとえば。)

そう考えると、ご立派な教説ではあるけれども、言ってることは王道すぎて普通、という感じも若干しないではなく、そのご高説はご高説として尊重しながら、逆から考える筋道があるかもしれない、とも思います。

実際の指揮者と楽器奏者の関係は、そこまですっきりしてはいないし、それに見合って、非営利の活動だって、(政府・国家を含めて)それほどすっきり筋目が揃うものではなかろう、と思うのです。

[というところで、追記おわって、最初に書いた文章へ戻ります]

なによりもまず、この国で何かをはじめるとしたら、ゼロベースはありえんだろうと思う。既存のものを潰すのだってコストがかかるわけですから、更地にしてゼロから作るのと、既存のものを土台にするのと、どっちが得か、常に両睨みである必要がある。

(ドラッカーは、そのような「両睨み」にずぶずぶと足を取られてしまわざるを得ないオーストリア、ウィーンに見切りをつけて、新大陸へ行ったから、すっきり「目的」→「使命」→「実行」というストーリーを描けたのでしょうけれど。)

そして既にある非営利団体は、これも既にある「人と社会」のなかでは帳尻の合わないことだから「非営利」なわけですけれども、もはや「目的」とかは古層を丹念に掘らないと表面からは見えないところがあって、でも、そんな状態であっても、というか、そんな状態であるからこそ、そういう帳尻が合わない存在を飲みこむ形で、既に「人と社会」は稼働してしまっているわけで、「人と社会」は、ドラッカー本人が想定しているのとは違う仕方で、ヒエラルキーに収まらない姿に既になっているような場合が多々ありそうです。

洋楽で言えば、音楽家が「音楽の演奏」という活動を「使命」としてやってるだけだったら、

「勝手にやってれば、こっちはこっちでやりたいことやるし」

で終わったはずなのに、オーケストラだのオペラだのをやろうとすると、音楽家が勝手にやってる状態では済まずに周囲を何らかの形で巻き込むし、

「何でこんなことに俺たちが巻き込まれとんねん」

という様々な問題も発生して、それをひとつずつ解決していくことそれ自体が「人と社会」を変えていく。そのようにして150年やってきた末の姿が私たちの前にあるので、それが今どう動いているのか、そこにマネジメントの実像があるような気がします。

最初に高らかに「目的」を掲げるようなことがそう簡単にはできない状況、何かが既にはじまってしまっているところへ分け入る「オーケストラ取扱説明書」があれば、なんとかなるんじゃないか。ほんとにビシっと背筋を伸ばして再出発しなければならんのか。その見極めでしょうね。

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で、もういっこ別の報道、

7日間で5万3000人が鑑賞した「大阪クラシック」については、野外行事や飲食出店を同時開催し、「都市の祝祭」とする案を披露した。

http://mainichi.jp/feature/news/20131113ddlk27040353000c.html

これは、なんか筋が悪そうな提案だなあ、と思う。

野外行事や飲食出店って、どっかに特設ステージ作って、芸人さんとかユルきゃらが○○大会をやる、とか、道ばたに関連グッズを売る店を出す、とか、そーゆーことでしょう。それ、絶対、代理店とかが入って来ますやん。そしてそのうち、一地域だけではスケールしないから、「博多クラシック」と「札幌クラシック」と「名古屋クラシック」を同時開催して、刷り物とかなんとか、全部一括発注したほうが安上がりですよ、とかいうことになって、普通の「イベント」になる第一歩な感じがします。

「大阪クラシック」は、要するに、

御堂筋という既に普段から人が集まってるところの、しかも、飲食店など既に営業・集客を行っている施設でやるから、音楽家は演奏だけやればいい、というコンセプトではじまったんだと思うんですよ。

そしてそれはどういうことかというと、音楽の専門家と、繁華街で店をやっている商売・集客の専門家が直接タッグを組んで、原則何も外注しない、ということで、自分らで全部まかなえてるから、「大阪も結構やるやんか」となる。

どうしても何か他に要るもんがあるんやったら、同じように、それぞれの仕事の専門家に声を掛けるのが筋だろうと思う。

で、自治体に声がかかってるのは、自治体が、税金という形で薄く広くお金を集めて、必要なところに再配分する「資金調達のプロ」、いわば後方支援の要だと見込んで、お金関係を頼んでるはずなんですよ。

それを、自分らでは「金集め」と「金の配分」すら満足でけへんから、業者に頼んでイベントや物販で新たに金もうけしましょう、というのは本末転倒感がある。なんかすごい看板倒れな人たちである、と。

それやったら、こっちもプロなんで、自分らで「集金」する方法考えるか、やめるか、どっちかやなあ、となるでしょう。普通。

どうも、イベントの趣旨とそこでの自分たちの役割を勘違いした、気のきかない答弁な感じがします。

(ドラッカーが、当初予想していたのとはちょっと違う感じの人らしいことがわかって、色々書き直しているうちに、最後は、わざわざ書く必要のないしょーもない話になってしまいましたが、ひとまず。)