それまで問答無用に頭を押さえつけられていた人は、そのような「目上」がいなくなると、今度はここぞとばかりに、「目下」の頭を押さえつけることに喜びを覚えるものらしい。
人間とは哀しい生き物なのです。
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全く個性の異なる人物がここに二人いるとしよう。仮に人物A・人物Bと呼ぶことにする。
個性がまったく違うのだから、わざわざAとBを比較する必要などないわけだが、誰かが唐突に、「情熱という点では」とか「迫力という点では」という、とうてい合理的な議論になり得ない観点をもちだして、「圧倒的にAが勝ると言えよう」などと言い出す。
無茶な断言なわけだが、その断言が何を意味しているかというと、
「俺はBなんて全然好きになれねえんだよ。てめえら、よーく覚えとかねえと、ただじゃおかねえぞ」
と婉曲に周囲にプレッシャーをかけているわけだ。
人物Bを抑圧しつつ、同時に、俺に従えよ、とばかりに周囲を威圧しているわけ。当人的には、自分の贔屓をプッシュすると同時に自分の勢力拡大ができて、一石二鳥、のつもりなのだろう。
一説では、往年のマスメディアの管理職がこの論法を好んだと伝え聞くが、会議とかで、こんな感じに「空気」を誘導しようとする人って、今もまだいるんだよね。
もちろん私は、一切無視するけどね。同じ業界にいたとしても、別にその人の会社の部下、というわけじゃないのだし。
私見では、こういう感じの「空気の操作」による権力行使が、今日では「女子力」などと呼ばれて可視化されているような、男ばかりの会社・職場で女性が生き抜く大変さの遠因のひとつだったりするのではないだろうか。よー知らんけど。
一方的に基準を設けて品定めされる理由なんてないのに、変だよね。
そんなことばっかやってるから、最近では、逆に女子が勝手に基準を設けてオトコを品定めしてやり返す、みたいな、なんとも不毛な権力争いが起きつつあるように見えなくもないぞ(笑)。
女子マネージャーの誕生とメディア―スポーツ文化におけるジェンダー形成
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「音楽はドイツだね」というおっちゃんと、働く女性への応援歌、わたしたちは女性とイケメンだけで年間スケジュールを組みます!は、補い合って、いっそ、相性抜群だったりするのだ。