『オペラの運命』の国民オペラの章を読みながら、音楽のナショナリズムは、様式論にしてしまうと「創られた説」になってしまうわけだが(そしてこの本でその要点は押さえられているわけだが)、肝心なのは旋律論ではないかという気がしている。
(「創られた日本の心」の演歌論も、音楽に関する論究の道具立ては主としてサウンドの様式論であり、演歌の起源と実態は実は洋楽だヨ、というシニカルな診断に傾きがちであったように記憶する。)
ナショナリズムとは関係ないが、これなど、うたをうたとして分析している本を久しぶりに見た気がします。
- 作者: ジェラルド・グローマー
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/05/21
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (6件) を見る
ナショナル・アンセム風の整った標準語であったり訛り丸出しであったり、表出であったり、美しかったり、霊的であったりするうた・メロディーラインを打ち出す作り手と、それをガッチリ受け止める聴衆の両方がいないと、メロディーという現象は成り立たなくて、ナショナリズムというのは、そのようなメロディー現象を成り立たせる格好の土壌だった、みたいに言えるのではないか。
(劇場とか親密圏とかマス・メディア共同体とか、ナショナリズム以外にもメロディーの翼が大きく広がる場は存在する(した)とは思うが。)
で、小谷野敦も前につぶやいていたが、新垣隆はメロディーを書かない作曲家なんだよね。そこがまだ「半身の姿勢」、たくさんある草鞋のなかの一足で、重心はかかってない、という風に思える。「スタイリッシュ」過ぎる。