故意の曲解

「演奏」とい語を欧米諸語に訳すとき、いろいろなふうにできるが、そのうちの1つは「遊び」に類する語である。

「演奏」はplayで(も)あるはずだが…… ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

文法的には間違っていないが、この日本語は事実を故意にねじ曲げている。

事態は、

「演奏」という言葉が先にあって、それを欧米諸語に訳す

ではなく、

欧米でplayとかspielenとか呼ばれている行為があって、ガイジンを日本に呼んできたり、自分たちが向こうへ行って教わったりするときに、どういうつもりか知らないけれども、どこかで誰かが、これを日本語では「演奏」と呼ぶことにしたらしく、それがそのまま通用して今日に至る。

でしょう。

順序が逆だよ。

(performanceといった単語が間に挟まり、playやspielenに「演奏」の語が直接リンクしているわけではなさそうなので、やや単純化した説明ではあるけれど。)

で、何故、この書き手が話の順序を逆にしているかというと、このねじ曲がった順序で書き始めないと、「日本の演奏はなっとらん」というお説教にうまくつながらないからだと思う。

そして、物事の事実関係を伏せた状態にしておかないと、気持ち良くニッポンジンを説教できない、というのはどういうことかというと、あなたが、事実関係をねじまげたところに成り立つ話を無理矢理押し通そうとしているということです。

さきに、わたくし「東京趣味」ということを散々書きましたが、これがまさにそういうことです。

もし、ニッポンなりトーキョーなりが、世界で最も音楽について優れた感性を有する人々の集まる国・都市であるならば、その国・都市の住人が、何も考えずに心に浮かんだ感想は、そのまま同時に、世界のどこへもっていっても通用する「グローバル・スタンダード」な判断である、ということになるでありましょう。

そして、世界に冠たるニッポン国や、メトロポリス・トーキョーの住人たるもの、そのようなナンバーワン、世界の頂点を目指すべきであるとするならば、それも結構。

でも、そんなこと、普通に考えても、ありえへん、でしょ。

市場の規模が大きかったり、色々な国の人たちと交流している事実はあっても、そういう取り組みは、別に、ニッポンやトーキョーがナンバーワンになることを目指してそうしているわけじゃない。

「演奏」の件だってそうですよ。

日本語を母語とするニッポンジンが「演奏」という言葉を聞いて心に浮かぶ事柄が、そのままグローバル・スタンダードにどこの国へいってもそのまま通用する状態であるべきだ、とか、妄想が過ぎるんとちゃいますか?

日本語で「演奏」と呼ばれている事柄と、それぞれの言語でplayなりspielenと呼ばれている事柄が、重なり合うところもあるし、ズレたところもあるのは当たり前じゃん。

音楽の趣味だってそういうことでね。

もう、いいかげん、クラシック音楽を、そんな風な、ありもしない「普遍性の夢」とくっつけるのは止めようよ。