書評欄

(追記あり)

今度の音楽学会機関誌の書評欄が異常な充実ぶりなのは、もっと話題になっていいのではないだろうか。

新国のパルジファルが終わったこのタイミングで、ワーグナーの反ユダヤ主義に吉田寛先生がコメントする、とか、

ヴァーグナーと反ユダヤ主義 「未来の芸術作品」と19世紀後半のドイツ精神 (叢書ビブリオムジカ)

ヴァーグナーと反ユダヤ主義 「未来の芸術作品」と19世紀後半のドイツ精神 (叢書ビブリオムジカ)

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

元AV女優さんによる「ネイティヴ人類学」と呼んでいいだろう著作が世間で奇妙な形で読み直されているらしいときに、アルテスのアジア人音楽家の本を中村美亜さんが評する、とか、えらく攻めている。

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

クィア・セクソロジー―性の思いこみを解きほぐす

クィア・セクソロジー―性の思いこみを解きほぐす

世間との離れ方、緩やかな絡まり方が絶妙。

この紙面を作った編集者は誰?……といっても、委員会運営だから特定の個人じゃないんですよね。あの気のきかない査読をやってる雑誌でこんなことが起きるから、世の中は面白い。

[追記]

是々非々ということで、やっぱりどうしても気になるこの件についても書いておく。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

「オレたちの“敵”であるところの音楽学会を利するようなことはしたくない。本書の”正しい書評”が掲載さるべきはポピュラー音楽学会である。“敵”であるところの日本音楽学会には、ありがたい聖典の要約を掲載すれば十分である。これを熟読して改心・改宗しなさい。」

という風なイデオロギー的メタメッセージを激烈に発散する奇っ怪な書評が出てしまうところに、この本の不幸がある。

岡田正樹くん当人はマジメで何の悪気もないのかもしれないが、書評は「あなたによる評価」を含まないとダメだと、誰かが言ってやるべきではないか。

与えられた文言をありがたく押し頂くだけであるかのように文章をまとめるのは、中立公正、などでは断じてない。(1) そもそもマックス・ウェーバー以来の「価値中立」概念を誤解していることになるし、なによりも、(2) 文章に何も書いていない空白・穴が残ってしまうのは無責任です。

読者という生き物は、文章に「空白・穴」をみつけると、そこに色々なものを補って読みます。キミが敬愛しているのかもしれないマスダのような手練れになると、「空白・穴」でスカスカのコメントを世間に流して色々なものを「釣る」のを趣味にしていたりするが、私の理解では、学会誌はそういう風な「釣り堀」ではないはずです。

そして輪島祐介の本は、評判になっているにもかかわらず決定的な書評が出ないまま今日に至っている不幸な本です。評者はそのことがわかっていない。ここで真正面からぶつかるガチの書評が書かれないということは、未来永劫、この本はまともな書評が出なかった本、という不幸を背負ってしまうことになりかねない。その罪は大きい。あなたは一生十字架を背負って生きるつもりなのでしょうか。師匠マスダがそうしているように(笑)。

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私見では、こういう事態が起きるのは査読に問題があるんだと思う。

音楽学会の機関誌には、(少なくともかつては)書評のほかに書籍紹介という枠があったはずです。今もまだその枠があるんだったら、要約と関連文献の紹介だけの原稿が届いた段階で、「これは書評ではなく書籍紹介として掲載すべき」と査読者が編集委員会に提言すべきではなかったか。そしてもはや書籍紹介の枠がないのであれば、「これは書評ではない」として不採用にすべきではなかったか。

人と人とが議論・討論をする「学会」という場で、ちゃっかり「本の紹介」がまかり通るようでは、なんとか某がなにやら特権批判を掲げて市庁舎で自著を多くのマスコミのカメラに写させて宣伝するのと同じになってしまうんじゃないでしょうか。