論文指導した北田暁大先生(社会情報研究所から現職に変わって数年してから大学院受け入れですよね、たぶん)は、きっと底抜けに「いい人」なんだろうなと思った。(ひょっとすると、実際に底が抜けているかもしれない、とも思うが……。)
それから、この本の著者と北田先生の遭遇によってニッポンの社会科学がひとつの興味深いテクストを得た、ということもわかった。(このテクストが「何論」なのか、にわかに判定するのは難しいような気がするけれど。)
でも、一連の出来事が著者にとっていいことなのかどうなのかは、ひとまずこうしてこうなったんだな、という事実を受け止めて、先のことを考えるしかないのかもしれないなあ、と思う。
著者はSTAP細胞の人と同年生まれで、この年代は難しいなあ、と、まずそれを真っ先に考えてしまいました。
女性の性欲について語らないのは踏み込み不足ではないか、という小谷野敦の意見も、私はちょっと違うんじゃないかな、という気がします。
- 作者: 鈴木涼美
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2013/06/24
- メディア: 単行本
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女性である著者が出演を「参与観察」の語で指し示していたことが最近になってわかったわけですが、その論法でいくと、本書は、読者がそのような「参与観察」を検証するために必要なのかもしれない一群の「参考文献」を伏せたまま書かれていることになる。本文では、すべてのインタビュイーが仮名で個人を特定できないようになっていて、著者はそれを特定すべきではないと判断した理由(必ずしも不当ではないとひとまず考えられるし、たぶんこの種の研究ではそれほど珍しいことではなさそう)を述べているわけですが、だとしたら、著者の「参与観察」に関する「参考文献」もまた、それを特定すべきではないことになるのだろうか。
そうなると、これは学術論文としてはギリギリですよね。取り扱うテーマの性質に鑑みて、ご了解いただきたい、ということになってはいるけれど……。
で、著者の禁止をかいくぐって「参考文献」を参照するとどうなるかというと、インターネットは恐ろしいところで、普通の手順でGoogle検索を何度か繰り返すだけで「参考文献」に到達できてしまう。(見るからに怪しいサイトです。普通は行かないほうがいい。)
そうして、冒頭のかなり長いインタビュー(←本書でも重要な分析対象とされている「饒舌な自分語り」)を再生してみると、「参与観察」中の著者が、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、と形容したくなるタイプの話し方をする人だということを確認できる。
「欲望」が極端に希薄な人が、存在を消滅させてしまわないために高速に饒舌を紡いでいるように見えた。たぶんこの人には、小谷野氏が期待するような道を切り開く力量はない。
「政治的手法」によって第三者による検証のハードルを高くした状態で、存在するか否かの判定が極めて困難な事象を取り扱う「研究」が、果たしてその任務を遂行するのに適任なのかすら定かではない人物によって進められるのって、やっぱりSTAPに似ていると思えてならない。
キラキラの発生は、日本の現在の学問の「先端領域」の風土病のようなものなんじゃないかと思う。