転倒した因果の推定

誰かが犯罪に巻き込まれたときに、その巻き込まれた被害者の側に何らかの「巻き込まれる理由」があったのではないかとあれこれ詮索すること、ましてはそこに「社会的因果関係」を推定する、というようなことをやりはじめると、どんどん犯罪を起こす側のやりたい放題になる。犯罪を起こしてくれたほうが犯罪学の研究材料が増えて嬉しい、みたいなことになってしまうのだから。

詐欺師がクラシックの大作曲家の感動秘話を詐欺の道具に選んだ、ということに着目して、あたかもそれは、大作曲家の感動秘話などというものを歴史のなかに持ってしまったクラシック音楽に責任の一端がある、みたいなことばっかりいわれたら、たまらんよね。

しかもその感動秘話というのは200年前のことで、しかも、そんなところばっかり感動するのは不毛だからやめましょうって、学者も関係者も長年地道に議論を積み重ねているんだぜ。

問題が起きたあとも、知らぬ存ぜぬではなく、それなりに対応して、やっと事態が落ち着いてきたかな、という今日この頃だぜ。

やってらんないよ。

そんな転倒した論理を振りかざすのは止めてくれ、と声を上げてはいけない理由がわからない。それは、発話者に主観的な悪意がなかったとしても、構造化された悪意と呼んでいいのではないか。

やるというなら、もうあとは、やらせてみて、その結果を見るしかないのかもしらんが。