「再帰性」対策

(追記あり)

このmodernoは「最新である」とか、「先端を行く」と訳すのがよいと思うが、どうだろうか。

おや、こんなものも訳されていたのか ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

上の引用で議論されている文は、「modern とは何か」という語句の説明(定義)のなかに modern の語が含まれている。

la modernità è l'epoca in cui diventa un valore determinante il fatto di essere moderno.

桂米團治が小米朝時代によく言っていたダジャレ、「フィガロの結婚は、フィガロが結婚する話です」に近い語法で気の利いたことを言ったつもりなのだと思う。

「意識とは意識された存在である(Das Bewußtsein ist das bewußte Sein)」というダジャレがあって、マルクスがどこかに書いたと聞いたように思うが、「近代とは近代的であることが決定的に重要になった時代である」は、そのような意識された存在としての意識を組み込まないと成立しない議論だと思われ、語法においてもマルクスのダジャレのヴァリアントなのだから、ダジャレっぽく訳さないとマズいでしょう。

近代と正面から対決してなおかつ越えようと企てる人たち(広い意味でのポストモダンなのか)は、しばしばこういう論法で近代を語るが、貴殿はご存じなかったか。それとも知っていながらトボけていらっしゃるのか。

この流れで「社会学とは社会の自意識だ」という言い方があるらしく、これは「社会学とは社会的であることが決定的に重要になった社会の学である」と言っているも同然だと思うが、この種の、定義が循環してしまう意識のありようを再帰性と呼び、社会学のある方面では、釈然としなくてもわかったことにして先へ進んでいいことになっているらしい。

(ただしこの議論はいかにも錬金術のようないかがわしさがある。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20141227/p4

しかもこの「再帰性」なるマジックワードを振りかざし、どこかの偉い人が「近代」と闘ってくれているはずだから、一兵卒である私は、そこはもう解決済みとみなして先へ行く、ということになると相当危うい。自分が戦争したわけじゃないけど、既に近代は負けた/終わったことにする、という態度。彼らが「担保」という言葉を好むのは、彼らの言論が「みなし」による乗り越えという負債・借金の上に乗っかる議論だからだと思う。)

日本人はなぜ存在するか 知のトレッキング叢書

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與那覇潤は、遂に「再帰性」全開で一冊書いてしまって、ああ焼きが回ったなあ、という感じになった。

「現代音楽」の語も、modern music の訳語であるかのような姿をしているが、同時代的にはむしろ contemporary 同時代性が強調されたように思われ、いずれにせよ、循環論法風にしか定義できない。「同時代音楽とは同時代的であることが決定的に重要な音楽である」みたいな……。

こんな風に特定の様式にはまらないと「現代音楽」とはみなされなかった1960年代の作曲シーンと似たようなことが社会学風評論もしくは評論風社会学にもあって、その目印がこの種の言葉の循環なのだと思われる。

訳者にはどうにもならないところで当人たちが思想/運動を画策しているのだから、そういう風に訳さないとしょうがない。シェーンベルクの不協和音をすべて協和音に書き換えてしまったら、それはもうシェーンベルクではない。

[一方、循環する語法で負債・借金を踏み倒そうという書き手を積極的に助けたい。あやしげな循環を翻訳の魔術で隠してしまって、著者を安全に夜逃げさせてあげたい。そのためには、著者を聖人君子に見せけかるくらいいいじゃないか、共犯者になろうともロンダリングに積極的に手を貸します、というのであれば、他人はもう何も言えないけれど……。大久保さんは、著者に「失踪した父の影」を見ていたりするのかもしれないし……。]