歴史と普遍

歴史は普遍たり得るか?

普遍史(ふへんし、英: universal history)は、聖書が叙述する内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史。それは天地創造に始まり最後の審判で終わる、未来をも含む有限の時間軸を範囲とし、空間的にはすべての世界を含んでいる。そこには目的があり、神による人類の教育と、その結果もたらされる救済に至る過程が骨格を成している。

普遍史 - Wikipedia

自由学芸 artes liberales には含まれていないけれども、現在多くの大学において歴史学科は文学部に置かれている。

ほとんど調べずに山勘で書きますが、

たぶん、artes liberales ではないけれども humanities ではあるものとして、歴史(学)があるのでしょう。

普遍史ではない歴史は、大航海時代・ルネサンス・プロテスタンティズム・啓蒙主義、そしてナショナリズムと散文(小説)の隆盛、あたりを背景にしていそうですよね。

普遍(artes liberales)を採るか、歴史(humanities)を採るか、と言い出すと、新旧論争になりそうだ(笑)。

なお一部で「教養学」という言葉を、学問の体系化された分野として用いることがある[1][2][3]が、「教養学」という名称を「学問の一分野」として用いた学術団体は、2012年時点で存在していない。例として2011年に設立された学術団体であるJAIRA(日本国際教養学会)を挙げると、同会は会則で「学際的立場」を基礎としており、「学際的な学会」として研究活動を「哲学、歴史、社会科学、自然科学、芸術、教育、外国語、環境など」[4]の多方面に広げている点を示しているのみである。

リベラル・アーツ - Wikipedia

という文章を見つけたりもしたので、artes liberales/humanities に加えて、Bildung 教養・成長という概念も、切り捨てるわけにはいかないかもしれない。

そして好むと好まざるとにかかわらず、その先で、「学際的/横断的」という契機が浮上してしまいそうではある。

機能的な説明としては、

知・学問の諸領域を方法や対象の個別性・特殊性で定義していくと、諸領域がどんどんバラバラに細分化されていく。これだけではよろしくないので、補完する何かが要る、ということなのでしょう。

で、「横断的」であり得るための知的体力(←語義矛盾だが)としては、自由/普遍と人間性と教養/成長が、栄養食品のようにバランス良く入っていないと、21世紀の世界像・人間像としては、やっぱりマズいんじゃないかな。

(別に、何も面白くない結論だが、当たり前のことを堂々と言うのが良い学会発表だ、と学生時代に先輩たちが言っていたような気がしないでもない。人文科学の口承伝統……。)

(つづく → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150311/p2