承前:批評をわたくしに発注する人の学問観と、学問をわたくしに発注する人の批評観

教育機関・研究機関である大学から給料もらっておきながら、公的な肩書きに「批評家」「翻訳家」「詩人」とか書いている人がたまにいるけど、一体何なの? 下部構造という言葉を知っていて、わざとやってるの? 今すぐとりあえずベンヤミンにあやまって!

吉田寛 Hiroshi YOSHIDA on Twitter: "教育機関・研究機関である大学から給料もらっておきながら、公的な肩書きに「批評家」「翻訳家」「詩人」とか書いている人がたまにいるけど、一体何なの? 下部構造という言葉を知っていて、わざとやってるの? 今すぐとりあえずベンヤミンにあやまって!"

一方に「音楽批評」をわたくしに発注し、わたくしが書いた原稿に対価を支払ったり、わたくしが書いた原稿がしかるべき媒体に活字として印刷され、販売されることにまつわる諸々に関わっていらっしゃる方々が考えている(と思われる)「音楽批評」というものがあって、

もう一方に、音楽学者とか音楽学の先生と一般に呼ばれている方々が、しかるべき知識と見識によって、これが音楽批評というものである、と想定していらっしゃるような「音楽批評」というものがあるらしい。

(twitterの住人である東大生のなかには、自分が言及されているという事実をトラックバックで告知しないのは行儀が悪い、と考えるshinimaiな風土があることを先般の経験で知ったので、いちおうこっちにもリンクを貼っておく。東京大学を頂点とする日本の知の相互監視社会は窮屈なことである。徹底抗戦だ(笑)。http://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20130214

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前者の、わたくしが書く原稿を「音楽批評」と処遇するエリアにいる方々は、週に1、2回わたくしが音楽大学で音楽学関係の授業を受け持っているからといって、わたくしに「研究者」の実態があるわけではないことを知っているし、だから、わたくしが「論文」と称して大学や学会の刊行物に、彼らが「音楽批評」とみなしているのとは違った肌合いの文章を寄稿したとしても、それは、「評論家」が手慰みに「趣味のお勉強」の結果を発表しているのだと思っているようです。

私は「批評」を書く人としてその方々の業務のフローの中に組み込まれており、「学問」は、わたくしとは別のところへ発注されるのが普通であるようです。

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そしてわたくしの大学院時代の同僚も、ほぼ同じ認識であったと記憶します。あいつは研究に行き詰まったから「売文」をはじめたのだ、と思っていたようで、

だからたとえば、

院生たちが学内の小冊子に順番に書評を書いて配付する、というようなことをやっていたときに、わたくしがそれに興味がありそうな素振りをみせると、「プロが参入するんですか」と皮肉っぽい半笑いで言われたものです。

学者(とその予備軍)の目から見た場合、金を受け取って他人をあげつらう作文をするのは、自分たちとは異なるハビトゥスなのであって、そこは見過ごすことのできない distinctive なポイントであるらしいのです。

そうしてどうやら、そのような学者(とその予備軍)な方々が考える、既に死んでいたり、これから再生の可能性があったりする「批評」というのは、そういうのとは別のどこかに存立するものであるらしい。

(また、私の母校では、現在、私を学部時代からご存じのお二人が教鞭を採っていらっしゃいますが、そのお二人が創刊された雑誌で「論文」として募集された投稿枠に私が出した原稿に対するお二人の「査読」が、本文については一言一句手を付けない、というものであったのは、私が完璧で修正の余地のない「論文」を仕上げた、などということはありえませんから、学者とは別のハビトゥスで生きる「評論家」と関わりになりたくない、そのような人種の綴った文章に手を触れては穢れる、「評論家ウイルス」に「感染する」のは嫌だからスルーしよう、ということであったのだろうと、わたくしは認識しております。)

汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)

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さてしかし一方で、これもわたくしのことを大学院時代からご存じの先生方のなかには、どういう理由によるのか、わたくしを「研究を志す者」と認定して、そのような認識のもとに、わたくしに音楽学の講義や講演その他の依頼をして下さる方も少数ですがいらっしゃいます。

そしてどのような理由によるのか、幸いにしてそのような「音楽学者」を講義室で演じるパフォーマンスは、毎年契約を更新していただき、既に十年以上続いておりますので、一定の「役割」を果たし得ているのだろうと自己判定させていただいております。

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伝え聞くところでは、世間には、「下部構造」が学者・研究者であるにも拘わらず「上部構造」(肩書きだけ?)で評論家を演じる方がいらっしゃるらしいのですが、

わたくしの場合は、「学問」と「批評」が上と下に分かれているのではなくて、水平に「兼業」という形になっております。

(「下部構造」といえば、今年もそろそろ確定申告の時期ですが、ここ数年、「大学」から得た所得と、「批評」で得た所得は、ほぼ半々です。……と書けば、「大学」でのわたくしの仕事量を知っている人と、「批評」の仕事量を知っている人の両方にわたくしのおおよその収入が同時にバレてしまいますが(←火の車です^^;;)。)

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まとめます。

  • (1)「学問」の「上」に浮遊している、わたくしのあずかり知らないタイプの「批評」というものがあるらしい。そしてこれは、既に死んでいたり、そろそろ再生したりするらしいので、なにやら霊的・宗教的なものなのだと思われます。
  • (2) しかし他方で、そのように「下部構造」を学問オンリーで固めて、その上部に霊的・宗教的な「批評」を浮遊させておきたい人達にとっては「触るな危険、感染注意」であるようなタイプの、わたくしにとっては日々の営みであります「もうひとつの批評」がある。そしてこちらは、当人が望めば、他の職種と「兼業可」になっております。
  • (3) そして(2)のタイプの「批評」と「学問」を「兼業」すると、霊的・宗教的な「上部構造だけの批評」を信奉する人達からの「ディスタンクシオ〜ン!」攻撃(→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130122#distinction)が漏れなく付いてくるようです。(これはこれで、ヒトの「人間性」がわかって面白いものです。)

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

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このような二種類の「批評」の関係は、宗教が、彼岸や死後や解脱や終末を思念する壮大さと、葬式・墓守に代表される日常性を合わせ持っていて、両者が必ずしも順接しているとは限らない、というのと似ている気がします。たとえば遣唐使の時代に、大陸へ渡って鎮護国家の密教呪法を授かる学僧と、墓守の「ひじり」は、話が噛み合ったとは思えないし……。

宗教はなぜ必要なのか (知のトレッキング叢書)

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他者・死者たちの近代 (近代日本の思想・再考3)

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ま、そういうことなのでしょう。

そしてこういった構造は、他の領域は知りませんが、少なくとも音楽批評では今も一世代か二世代前も、そんなに大きく変わってはいないと思う。何も大家のジイサンたちだけがそう思っているわけではない。

(でしょう? 自分の胸に手を当てて、正直に考えてごらんなさい。怒ったりしないから(笑)。)

中世の神と仏 (日本史リブレット)

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