本物のピアニスト受難の時代?

久々の更新ですが、先日、ちょっと考え込んでしまう経験をしたので、そのことを書いてみます。

ある音楽関係者と雑談していると、その人は、「○○というピアニスト、ピアノが壊れそうな弾き方だよね(笑)」と言うのです。

大急ぎでフォローすると、その演奏家は、いわゆる暴力的な演奏とは正反対の、見事に楽器を鳴らすことのできる「本物のピアニスト」です。私自身が勝手にそう思いこんでいるだけではなく、そのピアニストは、コンサート調律師など、ピアノという楽器に何ができるのか、現場で知り尽くしている人たちから絶大な支持を得ている関西では希有な(そして多分日本でも有数と言ってよい)存在。はっきり言って、「ピアノが壊れそう」発言は認識不足もタイガイにしろ!、と言いたくなる酷い言いがかりなのですが……。

私は、ここでその音楽関係者さんの発言を批判したいわけではなくて(一口にクラシック音楽といってもカヴァーすべき範囲は広大ですから、誰しも得意分野・不得意分野はあるのが普通のこと、その某氏に比べて私はどうなのかと考えると、とても偉そうなことは言えそうにありません)、経験も良識もあるその某音楽関係者さんが、どうしてこんな感想を持つようになってしまったのだろうということを考え込んでしまったのです。

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少なくともある時期の日本のピアノの世界では、ハノンの反復練習で筋肉をガチガチに硬直させた、いわゆるハイ・フィンガー奏法が確かに広まっていたようです。ですから、

 「大音響を出す人=ハイ・フィンガーのダメ・ピアニスト」

という等式が、少なくともある時期の日本では相当の確度で成り立っていたものと思われます。

ちなみに、日本のピアノ演奏がいつ頃いわゆるガクガチの「ハイ・フィンガー奏法」を克服したか、については見解が多少分かれるようです。

岡田暁生さんが『ピアノを弾く身体』やシャンドール『ピアノ奏法』を出版して啓蒙活動に乗り出したのは、「今も現場にはハイ・フィンガーの弊害が残っている」という危機意識に駆られての行動だと思われます。

ピアノを弾く身体

ピアノを弾く身体

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シャンドール ピアノ教本―身体・音・表現

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一方、ピアニストの岡田敦子さんは、日本音楽学会の機関誌『音楽学』に『ピアノを弾く身体』の書評を書いていて、そこで、「本書には、現場が気付き、実践しつつあるのと同じことが書かれている」という趣旨の感想を述べていらっしゃいます。もし岡田敦子さんの感想が正確な現状認識なのだとしたら、音楽学者の岡田暁生さんが「本物のピアノ演奏」についての認識を得たのとほぼ同じ頃、ピアノ演奏の現場にも新しい動きがあったというになりそうです。音楽研究者と演奏家が、ほぼ同時多発的に1980年代(岡田暁生さんの本が出たのは数年前ですが、岡田さんは、大学院生だった1980年代に既に同じ趣旨のことを言っていらっしゃいました)に「脱ハイ・フィンガー」に向けて動き出したと考えるのが穏当なのかもしれません。

(そういえば、故・井上直幸さんがNHK教育の「ピアノのおけいこ」などで活躍していらっしゃったのも1970年代後半から1980年代ですしね。そういえば、現在ドイツ在住のピアニスト、ハン・カヤさんは、NHKの番組を観て井上直幸さんに弟子入りすることを決めて、それがピヒト・アクセンフェルト先生との出会いにつながったのだと、以前ご本人から伺いました。今や中堅では飛び抜けた存在と言ってよい伊藤恵さんもほぼ同世代ですし、少し若い世代ですが、ハンガリーで学んだ北住淳さんや加藤洋之さんなど、私個人の印象でも、楽器から「本物の音」を出せるピアニストが、だいたい1970年代後半から1980年代前半に学生時代を送った世代から輩出している、という印象があります。)

いずれにしても、現在ピアノ演奏の現場は確実に新しい時代を迎えつつあると言ってよいと思うのですが、一方、先の「ピアノが壊れそう」発言をした人は、年齢的に、ハイ・フィンガーが日本を席巻していた時代にくぐり抜けて来た世代の人です。

当時のことは、想像することしかできないのですが、一方で名演奏家のLPがたくさん出回って、名演奏家の来日公演も相次いでいたので、「本物のピアノの音」を「聴く」チャンスには恵まれていて、でも、それでは、どうすればそういう音を出せるのか、現場の先生の間にノウハウはまだなかった時代ということになるのでしょうか。

それは、唐突な比喩かもしれませんが、アダルト・ビデオでセックスの段取りやテクニックについて膨大な知識(ヴィジュアルな記憶)を大量に摂取しているけれど、それを実践する機会に恵まれていない思春期の男の子みたいなものだったのかなあ、などと思ったりもします。アダルト・ビデオを「観て」興奮する男の子というものは、とにかく激しい動きこそが快楽への道と思いこんでしまったりすることがあるようです。男優さんたちが力任せに動きまくっている、と判断して、これこそが「オトコ」である、と思いこむ、と。

でも実際は、プロの男優さんたちは、(ホロヴィッツやリヒテルが「暴力的」ではないのとほぼ同じ意味において)決して「力任せ」ではない(はず)。ピアノから「本物の音」を生み出すときと同じくらいの繊細さと「脱力」ができていなければ、激しく動いても痛いだけ(のはず)ですよね(笑)。

セックスに関する思いこみは、実際の経験によって(乱暴にしたらパートナーに嫌がられてしまうでしょうから)、パートナーとの「愛の力」で理想的に矯正される道が開かれていると想像されます。でも、ピアノ演奏に関しては、誰もが簡単に試せるわけではないので、一生「観るだけ」(聴くだけ)で終わる人が圧倒的多数であって、思いこみがそのまま固着する可能性を否定できないところがある。そこがやっかいなのかな、という気がします。

一方に、「激しい動きこそが最高のなのだ」と無邪気に思いこむマッチョでワイルドなピアニストがいて、他方で、そういう間違った「激しさ」によって「(耳が)痛い思い」をした人たちは、反動で「激しい動きは悪である」という、どこかセックス恐怖症に似た逆の思いこみに陥ってしまう。そうして、ワイルドさと臆病さの狭間で、真の悦楽が取り逃がされる……。

深読みかも知れませんが、「ピアノが壊れそう」発言の背後には、なんとなく、そういう一昔前の不幸の記憶が作動しているように私は感じました。

もちろん、そういうマッチョ一直線も、その対極の臆病な優しさも、ひとつのライフ・スタイルではあるので、それ自体は(セックス・ライフが他人の干渉すべきことではないのと同じように)個人の自由。とやかく言うのはよけいなお世話です。でも、その余波で、せっかく今育ちつつある「本物のピアノの快楽」(を体現するピアニスト)が足を引っぱられてしまうとしたら、それは困るなあ、と、そんな風に思いました。あなたにとって、激しさは「痛いだけ」の体験だったかもしれないけれど、世の中には、それとは似て非なるめくるめく快楽というものが確かにある、現にあなたのすぐそばに実在しているのに……、と思ってしまうわけです。(なんだか妙な話の展開になってしまいましたが……。そしてこういう話の展開の中で引き合いに出してしまったピアニストの皆さんごめんなさい。でも、素晴らしいピアノ演奏は、ある種の快い営みですよね。私の書き方には、多少(かなり)の勇み足があるかもしれないにしても……。)

[追記]
念のために付け加えておきますが、これはピアノ演奏で常に楽器の生々しい音が露出していなければならない、というような、露出狂のススメのお話ではないつもりです。一切の慎みのない演奏があるとしたら、それはそれで問題でしょう。

そういう審美的な話へ進む以前の問題として、楽器が良好に響いている状態と、弦の響きを殺してしまうくらいに鍵盤をぶっ叩いている状態を聞き分けることが意外に難しかったりすることがあるし、両方をごっちゃにしてしまって平気であったり、そんなものだという風に耳を閉ざすような風潮が身近なところにあるとわかって驚いた。これではピアニストは大変だなあ、とそういうことです。話の流れとして、そのことが通じるように書いているつもりではありますが。