大澤壽人遺品コレクション作品目録『煌きの軌跡』刊行記者会見

午後、リーガロイヤルホテル松の間。ここに書くのが遅くなってしまいましたが、神戸生まれの作曲家、大澤壽人の作品目録を刊行した神戸女学院の記者会見というのにお招きいただきました。

主催者側は濱下昌宏先生(遺族から寄贈を受けたときの窓口になった前図書館長)の司会で、大澤壽人ご長男の壽一さん、大澤壽人リバイバルの立役者で音楽評論家の片山杜秀さん、神戸女学院理事長・院長の松澤員子先生、教え子代表で岡田晴美先生、音楽学部長の若本明志先生、目録編纂を担当した生島美紀子さん(『音楽のリパーカッションを求めて - アルチュール・オネゲル〈交響曲第3番典礼風〉創作』の著者でもある)。
関西の洋楽運動については、東京に比べて研究が進んでいなくて、それでも、朝比奈隆の満州での活動をまとめた岩野裕一さんの本は画期的な突破口だったと思いますし、

王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

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阪大の根岸一美先生がヨゼフ・ラスカと宝塚交響楽団のことを調べて、阪大で根岸先生の前任者だった渡辺裕先生の宝塚歌劇の話も本になっていますし(東大美学ご出身で大阪にいらっしゃった先生は、なぜか「宝塚」へ関心が向かうようで……偶然でしょうか)

宝塚歌劇の変容と日本近代

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毛利眞人さんの貴志康一評伝が出たり、

貴志康一 永遠の青年音楽家

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戦前戦中の雰囲気は徐々にわかってきつつあるのかな、という印象があります。

岡田暁生さんが書かれたという論文(「大澤寿人と戦前関西山の手モダニズム」私は未読)のタイトルにある「関西山の手モダニズム」というのが、この時代の関西の洋楽を形容するにはぴったりの標語かもしれません。

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

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あと、「阪神間モダニズム」は90年代からよく話題になっていますが、昭和初期大阪のほうも、市域拡大で「人口東洋一」になり勢いがあって、近代日本史研究、近代都市論の重要テーマだと伝え聞きました。

大大阪イメージ―増殖するマンモス/モダン都市の幻像

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記者会見の内容ですが、昨年末に神戸女学院から刊行された『煌きの軌跡 - 大澤壽人作品資料目録』は、ご遺族から寄贈を受けた楽譜資料の目録。クラシックの大作曲家について作成されているケッヘルやドイッチュ、BWVのような本格的作品目録を作ろうとすると、人数とお金を投入して何十年もかかるちょっとした公共事業になりますし、所蔵資料目録だけでも、短期間にまとめたのは大変なお仕事だと思います。

ナクソスその他から交響曲や室内楽のCDが次々出て、演奏会でも取り上げられつつありますが、

オーケストラ・ニッポニカ 第1集

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大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番/交響曲第2番

大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番/交響曲第2番

  • アーティスト: ロシア・フィルハーモニー管弦楽団,大澤壽人,ドミトリ・ヤブロンスキー,エカテリーナ・サランツェヴァ
  • 出版社/メーカー: Naxos
  • 発売日: 2007/12/19
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大澤壽人の室内楽

大澤壽人の室内楽

目録を見ると、死後、一度も音になっていない曲が、まだ、いろいろあるのわかります。楽譜は希望があればコピーを貸し出ししていただけるようなので、神戸女学院(窓口は生島さんなのだと思います)に問い合わせてみるといいのではないでしょうか。

当面、楽譜出版の具体的な予定は立っていないようで、パート譜なども遺品にないものは演奏者側で作る必要あり。逆に、資料貸し出し時には、演奏者側で作った楽譜を演奏後にワンセット寄贈してもらうことを条件にしていて、そうやって演奏可能な曲を増やしていこうという方針なのだそうです。目録作りのための実務も、卒業生有志のボランティアで実現したそうです。善意の積み重ねで少しずつ輪を広げていくというのは、「愛神愛隣」が校訓の神戸女学院らしいやり方かもしれないな、と思いました。

(説明が前後しましたが、大澤壽人は戦後、神戸女学院でソルフェージュなどを教えていました(作曲専攻は当時はなかった)。以前からポケットスコアなどが音楽学部に寄贈されていて、図書室の楽譜のなかには、大澤壽人の所蔵印のあるものが混じっていると聞いています。)

大澤壽人の生年は、従来1907年とされていましたが、戸籍は「1906年生まれ」となっているそうです。本人が「1907年生」と申告している資料もあるそうなのですが、目録編集チームとしては、「1906年生まれ」の可能性が高いのではないか、という判断のようでした。

あと、名前の表記も、本来は「おおさわ・ひさと=Osawa Hisato」。のちに「Ozawa Hisato」と書くようになったのは、フランスに滞在時に紛れがないようにそうしたのではないか、とのことでした。

個人的には、戦後の映画・放送の仕事がどういう広がりをもっていたのかということに関心があるのですが……、「日本での無理解への無念を晴らしたい」という思いをご遺族は抱いていらっしゃるに違いないですし、「山の手モダニズム」の煌きという意味でも、ボストンとパリの留学時代の作品を中心に紹介や研究が進むことになりそうですね。音楽ファンにとっては、パリでの音楽家との交流や活動が気になるでしょうし、ボストン=アメリカ東海岸と日本の交流史というのも、歴史的に面白いテーマかもしれませんね。

P. S.
片山杜秀さんは、「子供の頃から右側が好きだった」とあとがきに書いていらっしゃいますが、

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

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片山さんがいなければ大澤壽人がこれだけ注目されることはなかったに違いないですし、日本の「左側」=関西にとっても大変な貢献者ですね。