びわ湖ホールプロデュースオペラ「ばらの騎士」(の批評)

びわ湖ホール、2/2のシュトラウス「ばらの騎士」(沼尻竜典指揮、大阪センチュリー交響楽団ほか)の批評が「日経新聞」の2/12の大阪版夕刊に出まして、これに一部加筆したものが関東のほうにも転載されるようです。神奈川県民ホールで同じプロダクションが再演されるので、その告知を兼ねてということなのでしょうか。
私の感想は批評本文に書かせていただいた通りで、なんといっても注目はアンドレアス・ホモキのベルリン・コーミッシェ・オーパーでの演出をそのまま持ってきたことだったかと思います。物語設定の入れ替えは、あまりにも広まっているて今さら説明の必要はないような気もしますが、いわゆる「読み替え」演出の系列ということになるかなと思います。批評文で「リミックス」という言葉を出しましたが、こういうのは「作品解釈」とは別物だと思わないと楽しめないだろうな、と考えながら観ました。

「解釈」が、仮説的ではあれ作品の「隠された意図」を探るという謎解きの態度で臨むのに対して、「リミックス」は、作品を「素材」として利用しながら別の文脈で加工・編集してしまうこと。「解釈」が、(錯覚・イリュージョンであったとしても)「これこそが真の答えだ」というような納得と説得の効果を観る人に及ぼして、その作品への態度を決定的に束縛すること(その「解釈」ぬきにはその作品のことを考えられなくなる状態にしてしまうこと、一種の「洗脳」ですね)を目指しているとしたら、「リミックス」は他のやり方もあり得る可能性の束からとりあえず選び取られた一つの選択肢。「解釈」が、この作品はどういうものなのか、と作品への関心を強化する「求心的」な思考の働きだとしたら、「リミックス」は、あいつがそんな風にやるんだったら、オレはこうだ、という風に別の可能性を際限なく喚起しつづける「遠心的」な実践。

そういう風にとりあえず整理したうえで、ホモキ演出は、(作品の隠れた「読み筋」を暴くという手法を部分的に使ってはいますが)全体として「リミックス」寄り、という風に判断しました。

スタンダート・ナンバーのヒップホップ・ヴァージョンを聴いて、「こんなのはビンク・クロスビーじゃない」と怒ったって仕方がないのでしょうし、こういう演出を「シュトラウスらしさ」で語っても、その言葉は届かないんだろうな。そういう人はシュヴァルツコプフ・カラヤンなり、ミュンヘンのクライバーなりを観てくれ、名曲名盤は、いくらでも音楽ショップで売ってるから、それでいいじゃないか、という割り切りが大前提なのだろうと思います。

ただし、それじゃあ、これが現代の決定版、かというと、たぶん、そんな大それたことは考えていない。「時代」と歩調をあわせて芸術も古い殻を脱ぎ前進すべし、というアヴァンギャルドの使命感はなさそう。岡本稔さんが日本音楽学会で報告してくださったお話によると(http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/msj-kansai-wagner.html)、「読み替え」はドイツの中小劇場がウィーンやベルリンの大劇場への生き残り対抗策として採用したという経緯があるそうですから、伝統的な「型」を前提にして、伝統的な「型」が広く流布していることにのっかった上での差別化戦略なのでしょう。ポップスの「リミックス」もそうですよね。名曲名盤の膨大なライブラリーにCDショップで簡単にアクセスできる状況があってはじめて可能になった「複製時代」の楽しみ。親亀の背中に乗った子亀。「父性」と正面対決するのではなく、とりあえず話をはぐらかし続けて時間を稼いで、そのうち「大きな物語」が自然消滅してくれたなら儲けもの、というポストモダンの風景なのだろうと思います。

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で、それはいいのですが、びわ湖ホールのプロデュースオペラがこういう出し物になって、難しい顔をしている人、負荷がかかって大変な立場の人がいるんじゃないか、というローカルな懸念は残りそうですね。

公式見解としては、びわ湖ホールが長年、国内各種団体との連携の必要性を提唱していて(オペラのような大事業を各団体が個別にやっていては限界があるという主張)、今回は、コーミッシェ・オーパー、神奈川県民ホール、東西二期会、大阪府(大阪センチュリー交響楽団)との提携作品。遂に有意義な一歩を踏み出した、ということになるようです。

でも、実態としては、びわ湖ホールがお金と場所を提供して、ベルリンの演出、二期会とセンチュリーの人材を「買った」形になっていて、名前を連ねている諸団体の関係が「対等」には見えないので、どうなのかな、という気はします。

お下品な隠謀論でいくとしたら、東京なり国際マーケットなりのブローカーが沼尻さんというエージェントを滋賀県に送り込んで、潤沢な資金を引きだして好きなことをやっている、という風に見えないこともない……。そういう思惑をもった人たちというのが実在するのかどうかはわかりませんし、そういう風にしか物事を眺められない品性の卑しさが、談合に慣れきっている関西体質、「田舎者根性」であると切り替えされる可能性を否定できないわけですし(笑)。

ただ、秋の「こびと」と今回の「ばらの騎士」と沼尻さんの二つの公演を観て、会場に東京からいらっしゃった方々が「また沼尻が変なことやってるよ」的に心から楽しそうにしていらっしゃるのを拝見すると、この人はいわゆる「天然」で、むしろ全然「空気が読めない」のかもしれない、という気もしています。業界の機微にどっぷり浸かって、あれこれ策を練るようなタイプだったら、ここまであからさまに「県を金づるにして好き放題」と見えてしまうことはしないだろう。もっと上手に仕掛けを隠蔽するはず。むしろ本人としては、無邪気に「ツェムリンスキー大好き」「ホモキ最高」と思っているだけなのかもしれない。子供が好きなおもちゃを買ってもらえるまで絶対にその場を離れない、みたいな態度で県を動かしてしまったのかもしれませんね。あくまで推測に過ぎませんが。

こういう人は、いっそ好きなようにとことんやっていただくのが良いのではないか、と今回、舞台を観ながら思いました。

茂木健一郎氏がマスメディアのおもちゃとして機能しているのに似た構図……。そして沼尻さんが持ってくるものは、「クオリア」よりははるかに上等だから、まあいいのかもしれない、と。

当事者として関わっているホールの方々はご苦労が絶えないだろうとは思いますが、走り出してしまった以上、一蓮托生であると覚悟を決めてやっていただくしかないのでしょうね。

次はどんな変なことをやってくれるのか、自分に災厄が降りかかってくることのない客席から見物する分には、とりあず今回の「ばらの騎士」面白かったです。