宮城道雄は「音楽のフジヤマ芸者」なのか?(戦後関西音楽小史 - 大栗裕を中心に@はびきの市民大学)

相変わらずバタバタして、日々いろいろなことが起きていますが、順番にご報告。

関西の戦後音楽史を扱っております羽曳野市の市民講座。

http://www.city.habikino.osaka.jp/hp/menu000003600/hpg000003565.htm#wed-6
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091114/p1

ゲストを迎えるレクチャー・コンサート形式の3回目、12/9は小牧万須美先生をお迎えして、お箏と胡弓について勉強させていただきました。

1956年6月25日、宮城道雄が大阪へ向かう急行列車から転落死、という事件が起きました。当時のNHKのニュース映像(小牧先生がお持ちくださったものを観ました)は「大阪での演奏会へ向かう途中の死」と報じていますが、その演奏会というのは、宮本政雄指揮・関西交響楽団による松竹定期演奏会でした。(関響は、映画音楽などでつながりのできた松竹と提携して、この時期、大阪・神戸・京都の松竹座でも演奏会をやっていました。)

宮城道雄は神戸の居留地の生まれですが、その死も関西と縁があったわけです。

しかも、1956年6月といえば、朝比奈隆が大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」を含むプログラムでベルリン・フィルに出演した時期で、21日の演奏会の成功は関西で大々的に報じられていました。その数日後に、他でもなく関響演奏会のための来阪途上で宮城道雄は亡くなったわけです。

それだけではありません。

宮城道雄が出演予定だった演奏会のプログラムには、「ウィーンより」として、朝比奈隆が、自身の養父、朝比奈林三郎が宮城道雄の支援者だったことを紹介していました。演奏会当日、朝比奈さんはまだヨーロッパにいました。(だから指揮者は宮本政雄だった。)メインゲストになるはずの宮城道雄(関響とは初共演になるはずでした)が亡くなって演奏会をどうするか、と関係者が走り回った慌ただしい日に、オケの代表の朝比奈さんは圏外にいたわけです。(講座では、朝比奈林三郎の追悼曲として宮城が1923年に作曲した「薤露行」も聴いていただきました。)

(1) 宮城道雄が神戸生まれだったこと。(2) 朝比奈隆の養父が宮城の支援者だったこと。(3) 宮城道雄が大阪へ向かう列車から転落死したこと。

この3つの事柄は、それぞれ個別に、それなりに知られているようではありますが、1956年6月25日の関響演奏会を起点にすると、これらをきれいにひとつに結び合わせることができるのです。

どうしてこれまであまり注目されてこなかったのか、不思議なくらいにドラマチックな出来事が、1956年6月に起きていたわけです。(この事件をちゃんと書いているのは、当事者だった野口幸助さん(関響・大フィル事務局長)と須山知行先生(宮城道雄の大阪の弟子で、松竹定期に代役として出演)くらいだと思います。話し好きの朝比奈さんがヨーロッパにいて、この事件の圏外だったことが、この話が今ひとつ広まっていない一因かもしれませんね。)

ベルリンで拍手喝采を受ける朝比奈さんと、大阪での宮城先生の急死をめぐる動揺を対比的に描いたら、テレビ・ドラマが一本出来るのではないか、と思うのですが……。

(しかも、晩年の朝比奈さんを支えて昨年まで大フィル事務局長だった小野寺昭爾さんが大フィル事務局に入ったのは、まさにこの1956年6月。宮城道雄追悼演奏会となった6月25日の大阪公演の数日後、京都松竹での演奏会の日に小野寺さんは面接を受けたのだそうです。)

こうした因縁を含む話題なので、「宮城道雄と大阪」は、大栗裕講座で是非とも取り上げたかったのです。

      • -

講座では、小牧先生に「六段」と宮城晩年の「ロンドンの夜の雨」、「衛兵の交替」を弾いていただいて、古典と宮城作品それぞれの特徴をご説明していただいたあと、宮城道雄の業績のご紹介、宮城道雄や須山知行先生も得意としていた胡弓のご紹介……、と進みました。

(こういう小さな空間で対面でお箏を聞く、間近な距離で箏の音の美しさやニュアンスを味わうのは、とても贅沢なことですけれども、本来の在り方に近いのかもしれないな、と思います。大変素晴らしい体験でした。)

実は今回の講座には、宮城道雄と大阪(関西)の縁を紹介するだけでなく、もうひとつの狙いがありました。

宮城道雄の音楽は「新日本音楽」と言われて、しばしば(やや侮蔑的に)和洋折衷の典型とされるわけですが、本当にそうなのか。考え直してみたかったのです。

      • -

たとえば、某岡田暁生さんは、日本の民族派を「不器用なフジヤマ芸者的民族主義」と罵倒する方であり、近世邦楽を基礎にする宮城道雄の和洋折衷は、岡田史観では、そうした「音楽のフジヤマ芸者」の典型ということになるのだろうと思います。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20080906/p1

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

日仏交感の近代―文学・美術・音楽


一方、小牧先生は、西洋風の要素を箏曲に取り入れる姿勢について、「宮城道雄は周囲の音に敏感な人だったのだろう」と言います。

宮城道雄は、帝国主義時代に権勢を誇ったヨーロッパに対して、芸者さんが媚びるように擦り寄ったのではない。盲目で耳を通じて周囲と交感していた宮城道雄の側からすれば、周囲の環境のほうが変わっていって、西洋の音が彼の耳に届くようになっていた。そうした環境の変化に敏感に反応したのが彼の音楽だった。そういう言い方ができそうなのです。

今回、最後のまとめとして、宮城道雄が白浜に滞在したときに作詞・作曲した「浜木綿(はまゆう)」という作品を演奏していただいたのですが、宮城道雄が大陸やロンドンで新しい響きの曲を書いたのは、白浜を訪れて、明るい光を感じさせる作品を書くのと変わらない態度だったのではないかと思うのです。

      • -

明治以後の日本の西洋文明受容には、どこかしら男性エリート共同体のホモソーシャルな雰囲気がつきまといます。一神教への親和性とか、「坂の上の雲」的な列強との外交・競い合いとか、旧制高校教養主義とか。

そして、アメリカ将校を芸者ガールが一途に愛する「蝶々夫人」(朝比奈隆が最も愛していたと思われる作品)の日本のクラシック業界での評価が曖昧なのは、おそらく、そのようなホモソーシャルな風土の裏返しなのではないかと思います。蝶々さんのような存在は、「日本男児」の目指す格式張ったヨーロッパとの折衝をすりぬけるものであって認めがたい、というような発想があったのではないか。それゆえに、台本等を仔細に検討すれば決して単なる異国趣味ではないと解釈することができそうなこのオペラに対して、理性的というより生理的な、「国辱もの」という反応を引き起こしたのでしょう。

宮城道雄もまた、本来がお座敷芸であった(それ故に明治以後の「日本男児」によって抑圧されてしまった)近世邦楽をベースに、「西洋風」を柔軟に汲み取ることに成功してしまいました。そしてその音楽が、ルネ・シュメーというフランスの女性ヴァイオリニストの目にとまり、彼女と共演した「春の海」のレコードが、海外での評判を逆輸入する形で日本でも話題になったそうです。まさに、外交の正規ルートをすり抜ける「抜け駆け」です。

(「春の海」が宮城道雄の代表作とみなされるに至った背景には、そういう経緯があるのだ、と小牧先生が解説してくださいました。)

なるほど、こういう形での日欧交流は、肩をいからせた「日本男児」の富国強兵・条約改正・大日本帝国海軍大躍進とは相容れなさそうだな、と思います。

宮城道雄の新日本音楽は「フジヤマ芸者」的なのか? 音楽における国際交流が「紳士的」な「弁論・雄弁」(白州次郎のような)を連想させるものでなければならず(大澤壽人のように)、「お座敷的」な「遊興」を連想させるものであってはならない(宮城道雄のように)。どうやらそのような考え方があった(今もある)ように思われ、歴史的・社会学的・フェミニズム的・コロニアリズム的な分析・検討を要するのではないかと思うのです。

(宮城道雄は、「春の海」のようなサロン風の作品だけでなく、様々な演奏会用大作なども残していますから、いわゆる「新日本音楽」とは何だったのか、という問題は、「音楽のフジヤマ芸者」論だけで片付くわけではないとは思いますが。)

(それから、ここで言っているのは、白州次郎的あるいは大澤壽人的な国際派がダメだとか、宮城道雄のほうがいいのだとか、ということではありません。男女の性差をめぐる粗雑な図式化がその典型であるような不均衡な二項対立の発想、フェニミンなものを、主流派と想定されるマスクリンなものに対する補集合として表象してしまうような思考法、全体集合としての「人間」(あるいは「世界」)から「男性的なもの」(あるいは「西洋的なもの」)を引き算した残滓が「女性的なもの」(あるいは「東洋的なもの」)であるという素朴な算術、そして、「女性的なもの」(あるいは「東洋的なもの」)は引き算の残滓の領分におとなしくしておれ!というような発想が、和洋折衷を嫌悪する風潮の基底に作動しているのではないか、と言いたいわけです。西洋派エリートの和洋折衷への嫌悪は、女性の社会進出を白眼視するのに似ているのではなかろうか。欧化主義は、あたかも国際派の紳士が和装の良妻賢母を愛でるように、実は自宅の奥座敷での坐禅や「古き良き日本への愛着」と両立してしまうところがあって、和洋折衷が嫌悪されるのは、こうした美しい分業(美しい夫婦和合のイメージ)を揺るがすからなのではないか、と思うのです。)

      • -

須山知行先生は、宮城道雄の代役で関響演奏会に出演したのが縁で、その後、関響(大フィル)と共演するコンサートを続けました(桐絃社の「グランド箏コンサート」シリーズ)。大栗裕は、箏曲を箏とオーケストラの協奏曲へ編曲する仕事を受け持ったりしたのをきっかけに、須山先生と意気投合して、いくつか共同作曲のような形で箏の作品を遺しています。

大栗裕と須山知行は、いわゆる「現代邦楽」(「邦楽器の新たな可能性を切り開く革新」として60年代に注目された実験路線)とは違って、箏本来の奏法や様式を生かした作品を作ろうとしていたようです。

ここには、いわゆる「現代邦楽」が、邦楽器の特性から「非西洋的なもの」を濃縮して抽出するすること(それは上記の不均等な二項対立を実は強化することにつながってしまう、武満徹もこの危険から逃れていたとは思えない)への反発があったのではないかと私には思えます。(結果として生み出された須山・大栗作品が素朴なものであったことは否定できず、作品としての美的評価は、また別になされねばならないでしょうが。)

そうした取り組みを冷静に語るためにも、和洋折衷を「フジヤマ芸者」と蔑視する自称国際派の純潔主義、(岡田暁生氏にも受け継がれていると思える)近代日本エリート男性コミュニティのこわばった感性を解きほぐす必要があるのだろうな、と思います。

フラジャイル―弱さからの出発

フラジャイル―弱さからの出発

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

オリエンタリズムとジェンダー―「蝶々夫人」の系譜

オリエンタリズムとジェンダー―「蝶々夫人」の系譜