エフゲニー・キーシンと音楽史の「Common Practice Period」

現代音楽キーワード事典

現代音楽キーワード事典

本日は、これを買ってから、ザ・シンフォニーホールのキーシンのオール・リスト・リサイタルへ。

この本の原題は「New Directions in Music」(音楽の新しい諸潮流)で、「キーワード事典」という邦題はたぶん販売戦略的なものなのだろうと思います。相当な分量で値の張る本になりますから、「事典」扱いで大学・公共図書館に買ってもらおうということなのでしょう。それは、読者をミスリードしていることにもなりますが、「事典」やレファレンスとして使えるだけの内容を備えている、ダマされたと思って買え、という訳者の自負の表れでもあると思われます。本を売るのも大変です。

ともあれ、音楽における「New Directions」は、音楽における「Common Practice」との対比で言われているようです。私もこの本を読むまで知らなかったのですが、アメリカの音楽論(の一部?)では、16〜19世紀のヨーロッパの音楽(およびその影響下にある20世紀の音楽やヨーロッパ以外の音楽)の様式特徴を「Common Practice」と総称することがあるみたいです。「機能和声+長短調音階+規則的な拍子」ということなので、日本語で「クラシック音楽」あるいは「洋楽」と呼ばれる領域とほぼ重なりそうです。ドイツの音楽史書でバロックからロマン派が「調的和声の時代」と呼ばれることがありますが、同じものをよりニュートラルに名指そうとしている、ということでしょうか。

冷静に考えると、「Common Practice」という語は、中身が何なのかよくわからない箱のような概念ですが、おそらくそこがいいのだ、と思う人々によって使われているのでしょう。

中身が未定な箱・場所をとりあえず用意して、肝心の中身は議論のなかで決まっていけばいい、という発想。ディベートのスキルを磨いて、議論の意欲は有り余るほどあるけれど、何を議論すればいいのか「話題」と「動機」をすぐに使い尽くしてしまいがちで、慢性的に退屈しているアングロ・サクソン気質な大学人の方々は、こういう言葉を次々投入するほうが嬉しいのだと思われます。

概念自体をニュートラルにしておくほうが「政治的に正し」そうですし(そもそも「Political Correctness」という言葉自体が、何がその中身なのか未定なままに提出された概念ですから)、概念の宣言と定義を分離するのは、分析哲学や情報理論とも相性が良さそうです。アングロ・サクソンとつき合うためには、こういう発想法に慣れなければいけないのでしょう。

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さて、そして本の序文を読んでそんなことを考えながらキーシンのコンサートへ行きまして、文句のつけようのない立派な演奏を聴きながら、なるほどこういう人のことを、音楽の「Common Practice」の最良の意味での体現者だと考えたらいいのかもしれない、と思いました。

演奏の世界にもさまざまな「New Directions」への試行錯誤があって、そうした試行錯誤もそろそろやり尽くした観があるということから、音楽評論家は「クラシック音楽の黄昏」とつぶやいたりするわけですが、キーシンは元気で健全。1ヵ月以上日本に滞在して、4日に1公演というペースを崩さないスケジュールというのも凄いですね。大物は、生き急がない。映画スターがビバリーヒルズに住むように、キーシンは、音楽の「Common Practice」の中央の高台みたいなところに悠然と暮らしているようです。

(実はこの文章は、上で挙げた本についてもキーシンの演奏についても、何も具体的に言っていないに等しいですが、でも、「Common Practice」という言葉には、何も言っていないのに何かを言ったかのような気にさせてくれる効用がある。^^;; 世の中には、言葉を空回りさせる危険な回路が作動しているようで……。

そうした言葉の空回りはさておき、キーシンの演奏は素晴らしかったと思いますし、『音楽の新しい諸潮流』改め『現代音楽キーワード事典』は、キーシンの素晴らしさと並べて誉めるほどとは思いませんが、それなりに使える人には使える本なのかなあ、と思いますが。)