黛敏郎とミッチー・ブーム

[12/23、1950年代の「開かれた王室」とシンデレラ・ストーリーを最後に短く付記。]

川崎弘二編著『黛敏郎の電子音楽』に出てくるトピックのうち、涅槃交響曲までのところで気になるポイントを抜き出して年表にしてみました。

黛敏郎の電子音楽

黛敏郎の電子音楽

  • 作者: 川崎弘二,黛敏郎,川島素晴,清水慶彦,野々村禎彦,今堀拓也,石塚潤一,西耕一,市川文武,武藤和雄
  • 出版社/メーカー: engine books
  • 発売日: 2011/08/28
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  • 1951〜52年 フランス給費留学生としてパリ音楽院へ留学
  • 1952年11月 映画「カルメン純情す」封切
  • 1953年11月 「ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z」放送(文化放送)
  • 1954年1月 「大管弦楽のための饗宴」初演
  • 1954年6月 映画「噂の女」封切
  • 1954年11月 「ボクシング」放送(文化放送)
  • 1955年3月 バレエ「未来のイヴ」(武満徹との共作)初演
  • 1955年6月 「トーンプロレマス」初演
  • 1955年7月 映画「修禅寺物語」封切
  • 1955年11月「3つの電子音楽作品」放送(NHK)
  • 1956年1月 「電子音楽の原理」を『音楽藝術』に寄稿
  • 1956年3月 映画「赤線地帯」封切
  • 1956年7月 ダルムシュタットでシュトックハウゼン「少年の歌」を知る
  • 1956年11月 「7のヴァリエーション」(諸井誠との共作)放送(NHK)
  • 1957年11月 「葵の上」放送(NHK) 「オーケストラのためのカンパノロジー」初演
  • 1958年4月 「涅槃交響曲」初演

電子楽器・ミュージック・コンクレート・電子音楽への取り組みが映画・コンサートでの活動と密接にリンクしていて、しかも、まだテレビ放送がはじまる前ですから、ラジオは広域放送の主戦場。映画は娯楽の王様で、しかも黛敏郎が手がけたのは木下恵介や溝口健二といった映画会社の看板監督の作品。彼がオーケストラ作品を発表した「三人の会」は、当時の作曲家のグループ活動としては例外的にマスコミにも注目される華やかなものだったと言われていますから、アングラ的に人知れず実験を繰り返すというのではなく、衆人環視のなかで物事が進んだと見ることができそうですね。

フランス留学中にミュージック・コンクレートや電子楽器を知って、

  • 1952年11月 映画「カルメン純情す」封切
  • 1953年11月 「ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z」放送(文化放送)
  • 1954年1月 「大管弦楽のための饗宴」初演
  • 1954年6月 映画「噂の女」封切
  • 1954年11月 「ボクシング」放送(文化放送)
  • 1955年3月 バレエ「未来のイヴ」(武満徹との共作)初演
  • 1955年6月 「トーンプロレマス」初演

このあたりまでは、電子的な手法で音響のパレットを一挙に押し広げようとしていたようで、その経験は「饗宴」のようなコンサート音楽にもフィードバックされる。

  • 1955年7月 映画「修禅寺物語」封切

この映画は、タイトルバックの音楽に声明と梵鐘を使ったことで、のちの涅槃交響曲へ繋がっていくトピック。

そしてこのあと、NHKが電子音楽に取り組むことになって、

  • 1955年11月「3つの電子音楽作品」放送(NHK)
  • 1956年1月 「電子音楽の原理」を『音楽藝術』に寄稿
  • 1956年3月 映画「赤線地帯」封切
  • 1956年7月 ダルムシュタットでシュトックハウゼン「少年の歌」を知る
  • 1956年11月 「7のヴァリエーション」(諸井誠との共作)放送(NHK)
  • 1957年11月 「葵の上」放送(NHK) 「オーケストラのためのカンパノロジー」初演

諸井誠とともにNHKでの制作を続けながら、「少年の歌」をドイツで知ったあたりからセリエリズムの延長としての電子音楽という路線から離れるとともに、上で述べた声明・梵鐘への取り組みを創作にフィードバックする可能性が開けて、1958年4月の「涅槃交響曲」初演に至る、ということになるようです。

当時の活動が「衆人環視」に近い状態だっただけでなく、関連する映画やコンサート作品のほとんどが今でも視聴可能で、最近、放送音源もCD化されていますから、祝福された作曲家ですね。

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私としては、1957年の「葵の上」に観世三兄弟が参加しているのが気になります。

「砧」「羽衣」 観世寿夫 至花の二曲

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同じ年に、武智鉄二は黛敏郎から教えられた「少年の歌」を円形劇場形式の実験的なアンフォルメル演劇に使っています。(1955年の円形劇場形式による「月に憑かれたピエロ」(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110122/p1)に続く第二弾でしょうか。「少年の歌」を演劇に使ったことは、その後、武智と福田恆存の間でちょっとした論争に発展しました。)

武智は、1955-1957年の関西歌劇団創作歌劇でも、当初は黛敏郎に三島由紀夫「潮騒」を作曲してもらおうと打診していたようです。

記者 先生は最近御自分でオペラをお作りになるということですが

武智 今作曲できましたのは、「白狐の湯」あれを芝祐久さんに……。この曲を六月にやります。秋には石桁さんの「卒塔婆小町」松平氏はやるものは決まつてないのですけれども、来年の秋です。三島由紀夫さんの「潮騒」あれを今三島さんが自分でオリジナルの台本に書いているんです。黛さんが作曲することになつている。来年の秋のシーズンに上演できる迄持つて行きたいと思つています。(「武智鉄二にオペラ演出を訊く」、『音楽の友』1955年8月号、143頁)

これは1955年の関西歌劇団創作歌劇第1回公演直前のインタビュー記事。まだ本決まりになっていない計画をしゃべり過ぎている感じの談話でありまして(汗)、結局、三島・黛の「潮騒」も松平のオペラも実現せず、三島作品のオペラ化は、石桁眞禮生「卒塔婆小町」だけで終わったのですが……。)

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100211/p1

また、武智鉄二はジョン・ケージの情報も割合早くに得ていて、『音楽藝術』1956年3月号では「4分33秒」に言及し、そのあと、大阪で「アモレス」を創作日本舞踊(!)に用いたりしています。このあたりの情報源も、ひょっとすると黛敏郎だったかもしれないなあ、と私は想像しております。確証は何もないですが。

(1957年には、大栗裕も「羽衣」の能囃子を採譜した管弦楽曲「序奏と舞」を書き、1959年には謡曲「砧」に作曲した歌曲「擣衣」を大阪の現代音楽研究所の演奏会で発表しています。)

能と関連した現代洋楽作品は数多くありますが、1957年というタイミングは武智鉄二やその周辺の人脈との関係が具体的に何かありそうで、一度調べる価値があるのではないかという気がします。

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

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そしてこの時期の黛敏郎の仕事でひとつ気になるのは、1959年の「祝婚歌」。上の年表に当時の皇太子様の動静を書き加えるとこうなります。

  • 【黛敏郎】1951〜52年 フランス給費留学生としてパリ音楽院へ留学
  • 【皇太子】1952年11月 皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式
  • 【皇】1953年6月 イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列
  • 【黛】1953年11月 「ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z」放送(文化放送)

[……]

  • 【黛】1956年11月 「7のヴァリエーション」(諸井誠との共作)放送(NHK)
  • 【皇】1957年8月 避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う
  • 【黛】1957年11月 「葵の上」放送(NHK) 「オーケストラのためのカンパノロジー」初演
  • 【黛】1958年4月 「涅槃交響曲」初演
  • 【皇】1958年11月 正田美智子との結婚が皇室会議において満場一致で可決される
  • 【皇】1959年1月 納采の儀、ご成婚のパレード
  • 【黛】1959年4月 「祝婚歌」初演

黛敏郎が電子音楽への熱烈な取り組みから涅槃交響曲へたどりつく歩みは、アメリカの民主主義を学んだ親王が、日本の再独立後に皇太子として立ち、民間人との御成婚で「ミッチー・ブーム」を巻き起こすまでの時期と重なるわけです。再独立後に米軍基地が残ったことで1950年代には反米の気運もあったと伝えられますが、皇太子の御成婚はそんなギスギスした気分を包み込むような出来事になったようにも思われます。

片山杜秀さんは、黛敏郎の自由奔放なヴァイタリティを礼讃するアプレ・ゲールぶりを「アメリカ的」と形容しましたが、そんな黛が1950年代末に一種の日本回帰を果たすのは、こういう文脈に据えると唐突ではないと解釈できるかもしれませんね。

ミッチー・ブーム (文春新書)

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黛敏郎は「同時代」を、逆コース再軍備の果ての55年体制確立から安保闘争へ、という左翼史観とは違った風に見ていたのではないでしょうか。そしてこっちの文脈のほうが、わたくしがこのところ気になっている「サラリーマンの60年代」に接合しやすいのではないか、という気がします。「ミッチー・ブーム」とは、男性週刊誌で競い合っていたのと同じ出版社が出す女性週刊誌上の現象ですし、吉田秀和は1958年の『音楽芸術』に「日本とその文明について」の題でエッセイを連載しています(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110822/p1)。

それに、考えてみれば60年代は国家プロジェクトに芸術家たちが動員されていく時代です。(新左翼運動は、そうした巨大プロジェクトという「標的」があったからこそ盛り上がった一面があるかもしれない。)

実は1970年代のほうが、地方選挙で革新系首長が実現するなど、60年代よりも全体として「リベラル/左翼的」だったのではないか、という見方もあるようです。前衛党やセクトが突出する時代から、いわゆる「生活」へ密着した市民運動・住民運動の時代になって、田中派に代表される自民党左派の政治手法は富を再配分する社会民主主義的なところがあった、などとも言われますし……。

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[付記 12/23の天皇誕生日に]

  • 1952年2月6日、ジョージ6世死去。
  • 1953年6月2日、ウェストミンスター寺院でエリザベス2世が戴冠式、国内外にテレビ中継される。
  • 1953年8月27日、映画「ローマの休日」公開(日本公開は1954年4月19日)、アン王女を演じたオードリー・ヘップバーンは1953年度アカデミー賞主演女優賞。
  • 1956年、モナコ公国レーニエ3世がグレース・ケリーと結婚。

という海外での出来事を考えに入れると、ミッチー・ブームは日本国内単独の出来事ではなく、エリザベス女王の即位以来、1950年代を通して、いわゆる「開かれた王室」、平民が王室へ入るシンデレラ・ストーリーがマス・メディアでじっくり準備される時代だったのかもしれませんね。黛敏郎が日本の皇統への関心を強めるのは、ますます、それほど唐突ではなかったような気がしてきます。

大人のための「ローマの休日」講義―オードリーはなぜベスパに乗るのか (平凡社新書)

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戦後世論のメディア社会学 (KASHIWA学術ライブラリー)

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