でもクラシック音楽から「教養」を取ってしまうと、後には何も残らないんですよね。歴史的を振り返っても、クラシック音楽は教養市民層(教養主義)の発展と不即不離なわけですから。
まだ、その話をするか。
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中世とルネサンスが教会音楽の時代だとみることができるとして、そのとき、礼拝の歌・合唱を歌う場が重要で、それを「作り・担った」人が高位の聖職者かどうかということに、たぶん、誰も関心を払っていなかった。それが、理論と技術が分かれていた、ということ。
バロックと古典派が宮廷音楽の時代だとみることができるとして、そのとき、オペラや舞踊やターフェルムジークを「作り・担った」人が必ずしも高位の貴族だったわけではないけれど、高位の貴族に取り立てられた者だけがそのような音楽を作った。それが、「現象を救う」ユマニストと「現象を作る」技術者の交わった転換期。
ロマン派と20世紀がブルジョワ音楽の時代だとみることができるとして、そのとき、交響曲やテープ音楽を「作り・担った」人が必ずしも成功したブルジョワだったわけではないけれど、ブルジョワは、音楽を自給自足していると信じることができた。そのような二重底の製品を市場に安定供給するのが、いわゆる藝術作品の良い「設計」。
「教養」は二重底の上にのっかっているに過ぎないことをはっきりさせるためにこそ、「技術の哲学」が要るのだと思う。
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ただし、成功したブルジョワが自給自足で音楽を楽しむ例がないわけではなくて、それは、手芸(手編み)のようなものになる。
吉田秀和は、「教養」のほうじゃなくて、むしろ、この「手芸」としての音楽の愉しみを戦後の新中間層へ広めた意義が大きいのではないか。
「教養としてのクラシック音楽」が高齢化著しい読書界(や大学)にしか残っていない幻影であるとして、もう一方の、「手芸」的な「良き趣味」は、広く深く根を張って日本の津々浦々へ広がっていると思われます。
(ピアノ、ヴァイオリンと並んで、習い事としてはフルートが人気で、オバサマ方の心をわしづかみにする佐渡裕はフルート出身の指揮者です。)
吉田秀和は、(やや時代錯誤的に)教養主義の大権現として祀られようとしているみたいですが、それはお役人さんたちの勘違いというもので、むしろ、良き市民を慈悲の光で照らす観音様として民間信仰されていたのではないかしら。
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民間信仰というと、無知蒙昧な「民衆」に広まる習俗として知識人から愛憎半ばする視線を向けられる図式があるわけですが、この音楽評論の観音様は、むしろ、啓蒙された「市民」に最もよくアピールするようにチューニングされているところが「戦後的」だったように思われます。おそらくそれが、片山杜秀さんの言う「戦後市民の規範的な生き方を示した人」ということでしょう。
「民間」イコール「民衆」ではない、という言われてみれば当たり前のことを(だって大会社の重役や銀行の頭取も「民間人」ですから)、おそらく家庭雑誌や新潮社の仕事を通じてかなり早い段階で皮膚感覚で察知したことが、吉田秀和の評論家としての優位であり、戦後の一時期、仲良くつきあっていた柴田南雄(国立大学や国営(と名乗ってはいない)放送大学のポストを歴任した)などとの違いだったのではないでしょうか。
武満徹もグレン・グールドも小澤征爾も、「民間人」に愛される音楽家でした(←小澤征爾を過去形で語ってはいけないが)。この勘所をつかんだ者は、音楽の観音様から見て、免許皆伝だったわけです。武満のソングとか、グールドのもぐらのような音楽活動とか、成城の合唱団を大切にするオザワとか、いずれも、ある種の「手芸(手編み)」感覚のある人たちかもしれません。(そしてそれは、日本国内的には「桐朋的」と言い換え可能なのかもしれない。)
こういう人だからこそ、最後が水戸の公人であったことをどう捉えたらいいのか、そこが、関西に住む私には、最後までよくわかりませんでした。