「放送」という文化の教科書

ちょっと気になることがあって、先日来ラジオのことを調べております。

70年代のテレビ欄を調べたら、俄然、放送のことを具体的に考えられるような気がしてきた、ということもあるのですが、

(そういえば、「具象から抽象へ、身の周りの具体的な経験を調べるところから学習をはじめましょう!」は、GHQ占領下の戦後教育の重要な柱であったと、大学の教職「教育原理」の授業で、当時のアメリカ製教育映画を見ながら教わった。あれがエドガー・ディールの「経験の円錐」ですね、アメリカさんありがとう!)

ここでは、偶然みつけてびっくりした話。

出発点は、GHQの指導で1945年秋から冬にラジオで放送された悪名高きプロパガンダ番組「真相はかうだ」の舞台裏。

ラジオの時代―ラジオは茶の間の主役だった

ラジオの時代―ラジオは茶の間の主役だった

竹山昭子『ラジオの時代』(あとがきを読むと、わたくしたちが「テレビっ子」だったように、1930年前後に東京杉並に生まれて戦後、日本女子大に学んだような都会の中流市民のお子様こそが、幼少から家に高価な受信機があり、ラジオが戦時中に「国民的メディア」へ育つのと平行して大人になった「ラジオっ子」だったらしいことが推察される)には、当時のGHQ資料(「CIE日報」)からの抜書きがあり、そこに、このような記述あり。

一一月一八日(日) CIEラジオ課、『真相はかうだ』第一回台本を翻訳のため水川教養部長に手交。(315頁)

どこにわたくしが反応したかというと「水川」教養部長、というところで、それほど多い姓ではないから、もしや、と思ったのですが、花輪如一『ラジオの教科書』の「ラジオ体操」の章でフルネームがわかって、やっぱりでした。

「ラジオ体操の歴史」はトリビアの宝庫、そういった筋ではとっくに有名で、既にあれこれ語られているに違いないと思いますが、マッカーサーが朝の体操集団を気味悪がって、取り調べることになったという話の流れでこういう記述。

GHQでラジオを管轄していたCIE(民間情報局)はまず、日本放送協会教養部長水川清一から事情を聴きます。(166頁)

ラジオの教科書

ラジオの教科書

「水川」部長というのは、水川記念館に名前が残っている、かつての大阪音楽大学理事長、水川清一なのでした。

大阪音大の年史をみますと、水川は敗戦直後の教養部長から、このあと大阪放送局局長になって、1947年に、当時「高等学校」の認可を得るべく奔走していた大阪音楽学校の永井幸次と知り合ったようです。学校は1948年4月から大阪音楽高等学校に衣替えして、一方、水川は、公選で大阪府教育委員に選ばれ、翌49年5月に放送局を退職。同年秋に、ふたたび永井から、今度は学校を「短期大学」に昇格させるための相談を受けて、1950年1月には、永井のあとを受けた二代目の理事長に就任。その後の「短大」から「四年制」への移行の舵取りをすることになります。

1966年に大阪文化賞を受けたときのプロフィールがウェブ上にありますね。

はやくから教育の分野に身を投じ、とくに社会教育の面で活躍して指導的役割をはたした。戦後の変革期においては、放送教育・社会通信教育・青年学級などの普及に尽力して、働きつつ勉学しようとする成人、青年層の教育に新しい道をひらいた。氏の活動はさらに社会福祉の面にも向けられ、身体障害者や未亡人の生活安定に注目すべき成果をあげている。また音楽教育にもかずかずの業績があり、大阪音楽大学を整備拡充してわが国有数の専門機関に育てるなど、教育・文化・福祉の広範囲にわたってその進展に寄与した功績はきわめて大きい。

http://www.osaka-bunka.jp/cgi-bin/search.cgi?cmd=clk_here&awards=3&64=3&old_list=3

教育行政のほうから来られた方だということは漠然と認識していましたが、佐藤卓己先生が、「戦前からプロレタリア映画運動(プロキノ)の伝統がある映画教育」と好対照に「最初からブルジョワ的教養主義の色合いを帯びていた」と形容する「放送教育」をGHQ(とくに占領初期には、共産党シンパでは?と囁かれるほどの若手将校がいたとされる)と渡り合いながら切り盛りしていたようです。

明治期に「見世物」として持ち込まれた映画は、悪場所の大衆的娯楽から出発した。しかしラジオは裕福な小市民層から普及したため、最初からブルジョワ的教養主義の色合いを帯びていた。(25頁)

テレビ的教養 (日本の“現代”)

テレビ的教養 (日本の“現代”)

大栗裕は、ミナミの「悪場所」で育ったのに映画へのめりこむには至らずに京都で「音楽教育」の教授になって、親分の朝比奈隆も、少年時代は浅草オペラに通って戦後もずっとオペラ(ワーグナーじゃなくイタリアもの)が大好きだったらしいのだけれども晩年はベートーヴェン、ブルックナーのシンフォニーの人になりました。

「昭和の大阪の音楽人」の仕事ぶりが、いわゆる「大阪的」に「泥臭い」と言われながらも、いわば「近代的」に「整流」されたところへ落ち着いたのは、クラシック音楽はいつだってそんなもの、というのではなく、もしかすると「放送的教養」にどこかで制御されていたんじゃないか。

当人が制御されていたのか、「放送」に制御された時代に音楽をやっていたからそうなったのか……。いずれにしても、大阪の昭和の音楽文化、みたいなことが言えるとしたら、JOBKをはじめとする放送局が地元にあるということは、朝日新聞をはじめとする新聞各社のホールが街の中心で文化事業を競い合っていた(いる)こととともに、重い事実、いつも考えに入れておかないといけない条件なのだろうと思います。

音楽はいかに現代社会をデザインしたか―教育と音楽の大衆社会史

音楽はいかに現代社会をデザインしたか―教育と音楽の大衆社会史

そして昭和の「レコード歌謡」(のちの「歌謡曲」)は上の対比で言うと「放送教育」と相性が悪く、「映画」と添い寝したわけで、だから輪島裕介先生も「放送が嫌い」というスタンスのようなのですが、フジテレビのこの番組だったら許す、みたいに、「放送」のインフラによりかかりつつ「ワル」にも配慮する師匠譲りのご都合主義で本当に大丈夫なのかどうか。まだ最初のほうしか読めていないこの本は、昭和の音楽教育史から、「悪場所」的なものと「学校」的なものに共通する音楽についての基礎了解のようなものを抽出する野心があるように見える。長木誠司さんや戸ノ下達也さんが関わっている音楽文化史研究会の人のようです。