万博・オリンピックの呪縛、女工のバレーという企業文化

[最後を少し変えたのにあわせて改題]

2005年の『東京スタディーズ』の最後の吉見俊哉「占領地としての皇居」は、明治天皇制とは、江戸に降り立った占領軍だったのではないか、という視点を示唆しており、ドキリとした。大阪からトーキョーを眺めていると、帝都における官と民のせめぎあいは、なかなか実感を伴ってわからないけど、やはり、色々あるのだろうか。

東京スタディーズ

東京スタディーズ

この人に対するイメージがちょっと変わったので、改めてチェックしてみると、

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

有名な万博論(『まなざしの近代』)を出した直後から、愛知万博の反対派自然団体に講演で呼ばれたり、通産省側の企画準備委員になったりして、万博の舞台裏のリアルな政治に巻き込まれたらしい。その経験を踏まえて、大阪万博から愛知万博までを論じた『万博幻想』(『万博と戦後日本』と改題して現在は講談社学術文庫)を出したのが、上の『東京スタディーズ』と同じ2005年。

万博と戦後日本 (講談社学術文庫)

万博と戦後日本 (講談社学術文庫)

大阪万博について、「ドラマトゥルギー」とか「まなざし」といった表舞台の、いわば美学的な視点ではなく、私が知りたい舞台裏が、ごく世俗的な意味での政治的視点で整理されており、もっと早くこの本を知って、読んでおけばよかったと思った。

3.11.直後に書かれた原発と万博についての序論も加えられている。

お題目となるテーマを策定する知識人と、行事を動かす事務局が乖離して準備作業が迷走し、その隙間に食い込む形で代理店・興行師が暗躍し、どっちにしてもそういうのは一過性の打ち上げ花火なのであって、最終的には土地開発のデベロッパーが儲ける、という私たちに馴染みの「イベントの構造」が1970年大阪万博の反復であることがはっきりわかるし、「イベント」と開発が一体であることは、そもそも万博という「イベント」が高度成長・所得倍増という国土全体を改造する巨大プロジェクトの成果を体感できる行事として立案されたと考えればきれいに話を整理できる。第二次世界大戦後に、「芸術」における抜本的改造・大規模な新規開発事業として遂行された前衛運動の推進者たちが、その成果を体感する場として万博に参集したのも、そう考えれば不思議ではないかもしれない。

私たちは、「イベント」というのは(もっと小さな規模のものであっても)そういうものだ、と思ってしまいがちだけれど、それは、万博の呪縛が解けていないからなのかもしれませんね。万博以前の「イベント」とはどのように計画立案され、準備され、実行されるものだったのか、私たちには「イベントの考古学」が必要なのかもしれません。

さらに、『親米と反米』や『天皇とアメリカ』から、鶴見俊輔・和子・良行にとっての日本と米国を論じる近著(父、祐輔を含めて、著者は「親米/反米/インターナショナル/トランスナショナル」とマッピングしている模様、まだ読んでいる途中だけれど)に至るラインがあり、これが「占領地としての皇居」と関わるみたい。

天皇とアメリカ (集英社新書 532C)

天皇とアメリカ (集英社新書 532C)

アメリカの越え方―和子・俊輔・良行の抵抗と越境 (現代社会学ライブラリー5)

アメリカの越え方―和子・俊輔・良行の抵抗と越境 (現代社会学ライブラリー5)

こういう風に、彼が生活者のミクロな政治を拾っていた1990年代から、団体間の利害折衝としてのマクロな政治を論じるようになった2000年代への転換期のあたりに、カルチュラル・スタディーズ日本(再)上陸の1996年がある。

新左翼とは、ちょっと違う……のか。80年代の学生時代に芝居をやって(甘いマスクのいい男ですもんね)、90年代は都市を劇場に見立てた場合の表舞台、ゼロ年代は舞台裏や大道具について語っていると整理すれば、ずっと演劇青年のままだと見ることができるかもしれないけれど。

参考:

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「東洋の魔女」論 (イースト新書)

「東洋の魔女」論 (イースト新書)

前に少し感想を書いた『「東洋の魔女」論』(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130720/p1)。いくつかメモしておきたいと思うところが出てきた。

ただし、きっとよく売れるに違いない本なので、あらすじは、ネタバレ自粛。それぞれで「お手にとってお読み下さい」(←企業ブログによくある言い回し)

以下、要点のみ簡単に。

  • (1) バレーボールは女性の多い職種に広まったようで、その筆頭が繊維産業(戦後の義務教育6・3制で繊維工場は中卒集団就職の大口受け入れ先だったらしい)、他に、保険会社もそうで、全盛期は職場の半数近くがバレーをやっていたとの証言があるらしい、戸別訪問の「保険のおばちゃん」、セールスレディーさんは昭和の女性の職業の代表で、生保は女性が主役の職場ということか、なるほど……
  • (2) 職場のレクリエーションが加熱して、戦前からの女学校のクラブをしのぐ勢いになり、今なら「実業団チーム」と呼ばれるであろう存在として会社がバックアップするようになるわけだが、これは、経営者による使用人への温情主義(「○○してあげる」、被雇用者から見れば「おめぐり/おごり/ごっつあん」いわば「おねだり」か=日本社会の甘えの構造?)の付加給付ではなく、そうかといって、消費者向けの宣伝(いわゆる企業のイメージアップのための「広告塔」、メセナでよく言われたやつ)とも意味合いが違ったらしい

会社は新しい「魅力をつくろう」としてバレーボールを利用した。換言するならば、バレーボールが対外的に強いことによって、若年女子労働者のリクルート活動をスムーズにし、かつ若年女子労働者の企業に対する共同意識・帰属意識を高めようとした。すなわち、無名の工場ではなく、あの「ユニチカ(日紡)で働いていること」「あの工場でわたしは働いてい」ることに、若年女子労働者はプライドを持ったというのだ。(143-144頁)

一部日本史学者に「再江戸時代化」と揶揄されてしまったが、戦後日本は一定の労働組合運動が合法的に行われ、資本家と労働者(←ホワイトカラーのサラリーマンを含むニュアンスで「勤労者」とした方が当時の「総中流」の実態に即しているか)の双方が一定の誇りを持とうとしていた時代で、右肩上がりな業種は、それなりに「近代化」を目指していたのだと目を見開かれる指摘だと思う。

西日本の繊維業といえば、美術やクラシック音楽のパトロン、倉敷紡績の大原総一郎もこの頃の人(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100421/p1)。

戦後日本には、働く女性や若者にプライドを持ってもらえる企業となるべく、スポーツ・文化に取り組む、という考え方があった。(そしてこれは、過去形でなく、今もあっていいし、実際にはそういう志をもつ取り組みがあるんじゃないか、私が知らないだけで……。「理想の職場像」を照らし出す鏡としてのスポーツ・文化支援。社の内外どちらにとっても納得できる考え方だと思う。美化や自画自賛を手放しで認めるという意味ではなく、企業文化(企業が援助する文化にとどまらない、いわば「文化としての企業」)が社会化して、公論の対象になることを主体的に受け入れる選択という意味で。)

ただし日紡貝塚は、どんどん「勝つ」以外にゴールがないところへ追い込まれいく。最後は読みながら滂沱の涙。(*そこは、それぞれで「お手にとってお読み下さい」。)

大松監督に社長が「国力」を語るところが印象に残った。

現在の世界情勢を見てみい。アメリカとソ連がずば抜けて国力が強いだろう。国力の強さちゅうもんは、なんでも、すべて総合したもので、決して、てんでんばらばらなもんじゃない。軍備が世界一であるということは、経済も、学問も、精神も、体力も、すべて他国に対して圧倒的に強うなけりゃならん。なにひとつ負けられん。今世紀、地球上の二大勢力にのし上がった米ソ両国は、当然のことに、スポーツでも激しく首位争いをしている。スポーツで制覇することは、そのまま、世界を制覇する実力をもつちゅうことになる。(149頁)

朝比奈隆は、こんな感じに話す関西財界の社長さんたちの顔を思い浮かべながら、「オーケストラは国力だ」と言ったのであろう。バレーボールもオーケストラも、集団であるところが経営者に受けるポイントだったと思われる。

そうしてオッサンは、賛否両論を最後まで堂々と受けて立ったわけだ。日本人がひたすら「上」を目指し、「一等賞」を目指した時代の背景には、そうしなければ大国の間で埋没してしまうと怯える大状況があった。「近代化」と「めざせナンバー・ワン!」がひとつに重なってしまったところが、時代の輝きでもあり、今から振り返ると、限界を超えてシンドイところだったのかもしれない。

「万博の呪縛」とは、今でも私たちのなかに、何かのきっかけでこういうガンバリズムな突撃モードのスイッチが入る火種が残っているということだと思う。やるときはやらねばならぬ、かもしれないが、一度点火すると消耗は激しい……。

[付記:前のエントリーで一部削除しましたが、これは、勘違いしている人がいるようですが、誰かに言われて削ったわけではありません。話が拗れたときは、関係各方面に可能な限り透明にこちらの考え方が伝わるように情報をオープンにする、というのが私の基本的な考えですが、同時に、可能な限り誰も傷つかない決着を目指す、巻き込まないでいい人は誰も巻き込みたくない、とも考えます。状況は少しずつ変化して、徐々に見えてくることもあります。常に、何が最善かを考え続けています。]

社会問題の社会学 (現代社会学ライブラリー9)

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