大学のドイツ語教師

引き続き、びわ湖の夏のコンヴィチュニーの落ち穂拾いです。

本当は、今一番気になっているのは、ドイツ文化センターと日本ワーグナー協会の歴史と現在。ドイツ文化センターは、ドイツから人が来たり、ドイツへ留学したりする時に必ず名前が出てくる機関だし、日本ワーグナー協会(とその会員さんたち)は、ドイツの音楽劇を日本で取り扱おうとするときにその姿が見え隠れするのだけれど、どちらも、なかなか、正面切って語られることがないので、この機会に調べてみたいと思っているのですが、

すぐにそこまで手が回らないので、とりあえず、大学のドイツ語教師の現在を知るのに役に役立ちそうな手持ちの本を読み直してみた。

ドイツ文化センターを利用したり、ワーグナー協会の会員だったりする人のなかには大学のドイツ語教師や、独文専攻の学生・院生(現役だったりOBだったり)という方が多そうですから、これはこれで、読み直すいい機会ではないかと思いまして……。

文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)

文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)

桃山学院大の高田里恵子先生の本は、独文学者の戦争協力を扱った最初の本が既に文庫になっていると知り、びっくりしましたが、何度チャレンジしても、どの本も途中で挫折してしまいまして、独特に屈折した「文学愛」に、ついていけない感じを抱いております。

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

文学者の戦争責任、フェミニズム、教養主義の没落、などなど、当節の知識人が関心を抱くテーマが次から次へとてんこ盛りに設定されるわけですが、でも、読んでいくと、結局、著者は、世界の森羅万象を、それが日本の独文学(者)の延命に役立つか否か、という基準で取捨選択しているだけなんじゃないか、という気がしてくる。著者は今もポストモダンが大好きですが、それは、柄谷行人とか蓮實重彦とかに、文学者が輝いていた最後の時代として執着しているのかなあ、最後の文学青年なのかなあ、と思ってしまいますよね。

女子・結婚・男選び ――あるいは〈選ばれ男子〉 (ちくま新書)

女子・結婚・男選び ――あるいは〈選ばれ男子〉 (ちくま新書)

だんだんと、それが自覚的な「芸風」になってきて、近刊の、男が選び/選ばれる小説を漁りまくる本は、タカダ先生の書き下ろしの前後に編集者との対話が挟まる形になっている。遂に、本の体裁そのものが、ロマン派のイロニー以来のドイツ・中欧のお家芸な感じに自我が分裂して乱反射したり、ベタとメタを往復する構造になっちゃいましたね。

そしていつでも、内容に比して文字の分量が多く、饒舌。

20世紀の最後の10年くらい、ということは、高田先生がこの芸風で世に出る直前の頃に、「シューベルトのリートとか、ウェーバーのオペラとか、そこから順に掘り進むとドイツ文学にアクセスすることになって、ここへたどり着くことになるんだろうなあ。哲学は、頑張ればなんとかなるかもしれないけれど、文学青年の風土は、ちょっと苦手で、根気が続くかどうか、自信がないなあ」と、ずっと思い悩んでいたことを思い出します。

ドイツ文化センターは、合理的で実用的に運営されるビューローという感じに快適で、フランクフルトの証券マンやデュッセルドルフのビジネスマンが効率良く必要なスキルを研修して、さっさと現場へ出て行く通過点として、割と好印象を抱いていたのですが、鬱蒼としている感じが否めない日本の独文学と、これがどうつながるのか、いまだによくわからないんですよね。

ドイツからやってくる音楽家や劇場人は、どちらかというとドイツ文化センターっぽいこざっぱり感がベースにあって、それほどモッサリ鬱蒼とはしていないように思うし、歴史学や社会科学も、最近は機能的な感じがするのだけれど……。

どーなってるんでしょう?

19世紀の教養小説の長さは、「一を聞いて十を知る」というように要約・梗概で文学を片付けてもらってはこまる、じっくり時間をかけて味読・精読してくれ、ということ、あるいは、小説・物語の長さを支えている膨大な描写や蘊蓄は、ランダムに頁を開いてそこを読むだけでも面白くなるようになっているはずだ、ということだろうとは思いますが……。