吹奏楽譜の政治学

[結論だけをとりだすと「なんだ、そんなことか」となる小さなことを堂々と語る(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150210/p3)を早速実践してみた]

2015年4月25日、いずみホールにおける「青春の吹奏楽 part II」という大阪市音楽団の演奏会の既に告知されているプログラムでは、日本人作品4曲が次のように表記されている。

  • 和泉宏隆:宝島(真島俊夫 編曲)
  • 野村正憲:行進曲「マリーン・シティ」
  • 保科 洋:風紋(原典版)
  • 大栗 裕:大阪俗謡による幻想曲

見る人が見れば、「なるほどね」と思うわけだが、ここに各作品で使用されると思われる楽譜・出版社名を書き加えてみよう。

  • 和泉宏隆:宝島(真島俊夫 編曲) → ヤマハミュージックメディア(ニュー・サウンズ・イン・ブラス)
  • 野村正憲:行進曲「マリーン・シティ」 → 全日本吹奏楽連盟(1990年課題曲D)
  • 保科 洋:風紋(原典版) → Hoshina Music Office
  • 大栗 裕:大阪俗謡による幻想曲 → 楽団所蔵手稿譜

私も先ほど調べてわかったのだが、

http://www.hoshina-music.com/works/compositions/windband-compositions/fumon-band

保科洋は自作を Hoshina Music Office 名義で自身で管理しているようだ。大手の出版譜から、作曲者の自主管理や、自分たちが吹奏楽編曲を委嘱した作品(「大阪俗謡による幻想曲」)の手稿譜まで、出所がバラエティに富んでおり、これだけでも日本の吹奏楽の歴史の一端が見える。

だが、ここで注目したいのは、これだけではない。

もういちど、演奏予定曲を見直すと、

  • ホルスト:吹奏楽のための第1組曲(伊藤康英 校訂)

というのがある。バンド・ジャーナルの付録楽譜として数年前に発表されて、今はブレーン社が出している版です。

つまり、オリジナル手稿譜もあれば、20年以上版を重ねている楽譜もあれば、作曲者個人事務所版もあれば、批判校訂版もある、ということになる。

[楽譜を批判校訂すると、自ずとホルストが想定した、現在とは違う楽器・編成による音楽が見えてくるはずだから、今回のコンサートは無理としても、大阪市音は吹奏楽のピリオドアプローチに乗り出したらいいのに、と思う。そこまでやれば、リベラ・クラシカのモーツァルトに対抗して堂々といずみホールの舞台に乗る意味が生まれるのに。

第四師団軍楽隊時代の資産もあるのだし、大阪市音は「吹奏楽界のBCJやテレマン協会」になる潜在的な可能性を秘めていると私は思う。]

そしてさらに、

保科洋の作品は、作曲者がオーソライズした楽譜を「原典版」と称して使用する一方で、大栗裕の作品は、ティーダ出版が著作権継承者と契約して校訂した「原典版」と称する楽譜ではなく、敢えて手持ちの手稿譜を使う。

ちなみに、これは著作権者・出版社がこの作品の伝承の歴史的経緯を踏まえて特別に許諾しているケースだと推察されます。他の団体が市音の楽譜を借りだしてコンクール等で演奏するのは、おそらく出版社が許諾しないでしょう。

ティーダ社の楽譜は、市音から大阪音楽大学大栗文庫に寄贈された自筆総譜を底本にして校訂されていますから、楽譜の出所は同じですし、他の団体が現状で市音の楽譜に特別な意味を見いだす必要はないでしょう。

それでも市音が自前の手稿譜にこだわるのは、象徴的な意味(うちはずっとこれを使ってきた)と経済的な意味(楽譜を新規購入するつもりはない)が大きいと考えられます。市音にとっては意味があるわけです。

クラシック風な形態もあればポップス風な形態もあって、日本の洋楽楽譜の出版・流通・伝播がどういう風に多様化しているか。大阪市音は、その見本市・展示場のような状態になっているかもしれませんね。

吹奏楽については、はきはきと明快な言葉が飛び交っている印象がありますが、物言わぬ楽譜は、言葉とは別の様々な状況を伝達するように思います。

マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 (モード・ジャズの原点を探る)

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伝説のレコード「カインド・オブ・ブルー」の神話の向こう側をのぞき見ることができたのも、レコーディング風景の写真に「楽譜」の一部が写っていたのが決定的だったわけですよね。資料としての楽譜は、ポピュラー音楽においても重要だと思う。