私も動くし相手も動く

商品写真、ブツ撮りは、対象を固定して、カメラも三脚に固定する。

(大栗文庫の所蔵品を撮影するのに年末年始はかかりきりだった。すべてがゼロから手探りだったので、細々した機材を揃えるところからはじめて数ヶ月かかった。)

風景写真は、静止した対象の周囲で、カメラ片手に撮影者がひたすら動く。

(びわ湖の写真を撮ろうとしたら、夕陽がいい具合に建物の背後に来る場所を見つけるために、公園の中を動き回ることになった。カメラの入門書が単焦点レンズを使え、と言うのは、ズームに頼らずにカメラを持って動くことをまず学べ、ということだと思う。それは小さな移動だが、旅の写真は、そこにずっとある何かを、遠方からはるばるやってきた者が撮るわけですね。そして大栗裕が晩年に夢中になった山岳写真は、重たい機材を担いで頂上まで登らないといけないから体力勝負だ。大栗裕は遭難しかかったこともある。)

ヒコーキ写真は、常に移動する対象を、地上の相対的に固定したと見なしうる位置から人間が撮る。

(ヒコーキは静止したら墜ちるし、撮影する人間がカメラを持って多少動いたとしても、ヒコーキの速度からすれば、撮影する人間の移動はほぼゼロに等しい。スポーツ写真や野鳥の写真も似たような感じだろうと思う。人間と動く被写体の速度差や距離を埋めるためにカメラがある。撮影者が静止した被写体を撮るときとは、装備や技術やノウハウががらりと変わるようだ。ズームの何が有り難いのか、どうしてシャッター速度を優先する撮影モードが存在するのか、オートフォーカスが高性能モーター付きで対象を素早く追尾する風に進化したのはどういうことなのか、こっちが動けない状態で動く対象を撮ろうとして、ようやくわかった。)

ちょうど家の前の小学校でサッカーをやっていた。

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ゴール付近は前の団地の影になって見えないが、白チームのフォワードが、ディフェンスの不用意なパスをカットしたようだ。望遠 telephoto である。

さてそして、若い女子のポートレートは男子諸君の欲情を煽るわけだが、あれは、被写体も動くし撮影者も動く。記念写真風にモデルさんが静止して、「はい、チーズ」では、人間が人間を撮った感じにならない、というので、これも独自の膨大な技術とノウハウがあるようだ。

(人間が人間を撮る、という行為は、潜在的にポートレートと同じジャンルと見ることができるんだろうなあと思う。)

こんな風に、私が動く/動かない、相手が動く/動かない、の組み合わせは4通りありそうで、所詮はシロウトが浅瀬で遊びながら考えていることではあるが、何かの発見的な比喩として使えるかもしれない。例えば、ことばをめぐる関係性にも似たところがあるように思う。

学問に含まれる観察・記述(「私」も「対象」も動かさない、動かすときはその都度そのことを明記する必要がある)と、小説の描写(通常、視点人物もまた物語・プロットのなかで動く登場人物である)と、報道・論評(ジャーナリストや批評家は、読者の代理人として出来事を体験する現場感が大事だが、書かれた言葉の効果や印象とは裏腹に、安全が確保されて安定した観客席に居る、そうじゃないとレポートや論評を読者に届けることができない、善し悪しではなく、そういう構造に立脚して成り立つ立場だ)と、日常会話(私も動くし相手も動く)……というような例を挙げることができそうだ。

で、SNSのつぶやきの連鎖が不安定で壊れやすそうに見えるのは、日常会話(私も動くし相手も動く)を構成する要件の一部をたやすく欠落させ得るからではなかろうか。

匿名の暴力性というのは、お互いに動きながらやりとりをしているはずの「私」と「相手」の少なくとも一方がステルス状態になって、いったいどっちに言葉を投げればいいのか、どこから言葉が飛んでくるのかわからない状態ですよね。誰を撮っているのか、誰に撮られているのか、よくわからない写真を撮り続けて、それが集積されているようなものだ。

(実際、匿名のレスのつぶてが飛んでくる状態は、パパラッチに喩えられたりしますよね。)

そして相互に動きつつ繰り広げるやりとりの一部という了解で発せられた言葉を、そのプロセスから切り離して取り出すと、あっという間にスキャンダルの種を手に入れることができそうに見える。

(週刊誌が流出写真に飛びつくのに似た事案が、日常的に起きたりするようですよね。)

あれは、自分も動くし相手も動く、というのを円滑に遂行するのに向いていなさそうだし、それとは違う何かが行われる場所なのだろう。

(特定の誰かと相互に動きつつやりとりする、ということを一切したことのない人が生息している、とは、さすがに考えにくいので、別の場所で特定の誰かとの関係を取り結びつつ、それとは違う何かをあそこで執り行うのでしょうなあ。)

「私」と「相手」が動きつつ動く、という関係をモデリングするときに、「それぞれが思ったことを言い合う」状態と、「相手をロックオンして毒づく状態」の2種類しかメニューを選べない、というのは、関係構造のモデルに不備・不足がありそうだ。

見たものを撮ればいいんだよ、というのと、シャッターボタンを半押ししたらフォーカスがロックされます、というのを教わるだけの状態は、往年の「バカチョン」と呼ばれた日本製小型カメラのコマーシャルを連想させる。(小型化と大量生産によるカメラの大衆化と、オートフォーカス黎明期のセールストークで、議論が止まっている感じがする。)そのようにして撮られる写真は、種類が著しく限られそうだ。