カルテットのゲーム・バランス

弦楽四重奏の歴史の見所、ポイントをまとめた文章をあれこれ引っ張り出してにわか勉強中ですが、結局、このジャンルの成り立ちは、ルールというほどには強くはない約束事を絶妙に設定したゲームをハイドンが発見して、これにモーツァルトなんかが乗って、そのうち、このゲームを専門にやるグループが出てきた。偶然にもゲーム・バランスが絶妙に良かったのでしょう。

ウィーン流のカルテットは1780年代に火が付いたようですが、この頃はフリーメイソンで妙な儀式をやって団体内で出世して「マイスター」になる人事ゲームに興じる人もいれば、トランプや玉転がしの賭け事に興じる人もいるし、4つの弦楽器をどう面白く動かすかに夢中になった人もいて、それぞれが、後世から見ると宗教、賭博、室内楽と分けて捉えられるのだけれども、やってる当人たちにしてみたら、集まってワイワイとひとしきりの時間を過ごす遊びとして、それほど大きな違いがなかったのかもしれない。社交ってそういうものですよね、たぶん。

カルテットやソナタを当時は3曲や6曲のセットで作曲・出版したようですが、一連のゲームの記録の意味合いがありはしないか。エステルハージ家ではこんな面白い対戦があったのか、ほう、最近はロブコヴィツ家が台頭してきたな、みたいな感じ。

たぶん、ベートーヴェンが本当に弟子入りしたかったのはモーツァルトのはずで、それはきっと、室内楽名人より、ピアノ名人になりたかったからウィーンに来た、ということだと思うんですよね。いちおうop.1は室内楽だけれど、ピアノ三重奏ですから、弦楽器のアンサンブルに自分の都合で強引に鍵盤楽器を持ち込んだようにも見える。みんながペンと紙でこつこつ筆算している試験に、パソコンを持ち込むようなものですよね。その後も10年くらいピアノばっかり弾いて、なかなか四重奏を書かないし、書いたら書いたで、えらく派手な、コンサートでやりそうな音楽だし……。

ハイドンと同じ頃ヴィオッティがフランスでコンチェルトのようなカルテットを書いて、その弟子があとでウィーンに来てルドルフ大公と一緒にベートーヴェンのデュオを弾いたと伝えられるローデ。ベートーヴェンはフランスの動向を間違いなく知っているし、ハイドン流のカルテットの縛りは、あってないような、ないようであるような、微妙なものに思えたのかもしれない。

ギャラントなウィーンの盛り上がりなんてその程度のものだったのに、そうこうしていると、ナポレオンを追放した宮廷の連中は王政復古などと、アホなことを言い出す始末。

貴族の皆様の中途半端なお気楽ぶりに、ベートーヴェンは違和感があったんじゃないだろうか。「復古といっても、お前たちは何をどう修復するつもりなのか、アンシャン・レジームは、それほど立派なものじゃなかろうに」という苛々と、ハイドンが生きてる間は勢いで強引に好きなことやるだけだったカルテットというゲームでやり残したものがある負債感が一緒になって、それが「後期様式」なのかもしれませんねえ。

(ハイドンは長生きでベートーヴェンの「皇帝」や「運命」「田園」の頃まで生きていた。[1809年没、満77歳だからうちの父とそれほど違わない。]「後期様式」は、師匠が死んだあとのスタイルでもあるわけですね。)

シントラー(←ウィーンの百田尚樹、生涯独身のベートーヴェンに出版差し止め訴訟を起こす子供がいなかったのは良かったのか悪かったのか(笑))みたいに死んだ人を聖人君子に仕立てるのでないとしたら、そんな感じではないだろうか。