2017-01-01から1年間の記事一覧

多元方程式:音楽劇と音楽分析の現在

音楽劇は、言葉(語り)と歌、音楽と演劇、意図と効果、創作と受容、構造と演出(修辞)、物語とドラマ、個人と集団、芸術と政治、といった数多くの変数が組み合わさった多元方程式のようなところがあって、そこが面白いし、そのことを知れば知るほどワクワ…

組織の合理化と「組織の顔」

組織の合理化でムダを省こうというデフレ・マインドの最終局面が津々浦々に浸透しているのが現在の状況で、組織の合理化とは、ヒトをマシンの部品として活用することだから、組織は、ヒトの集団ではあるのだが、集団としての「意志」をもつことはなく、何者…

ニワカ

私はニワカだから、と謙遜してコアでファナティックなファンたちのコミュニティの攻撃を予防する話法があるらしい。FF外から失礼します、に似た処世術、という理解でいいのだろうか。

response と reaction

増田先生は、人間的な「応答」とリトマス試験紙が変色するのに似た「反応」の区別が肝要だと教え諭すが、これは、情報社会(ネットのコミュニケーション)の勘所というより、大衆社会論に先祖返りしている感じがある。真田父子の「兵を塊と見てはならない。…

形式論はfundamentalか?

このあたりのことは学生時代に随分考えたのでとても懐かしい気がするし、こういうことを一度徹底的に考えざるを得なかったのは80年代を学生として過ごした世代の巡り合わせだったのだろうと世代論的共感のようなものを覚えますが、でも今は、そういう風に「…

Three little maids from school are we

「学校帰りの……」と訳すのは誤りで、「わたしたちは学校を出たばかりの(=若いピチピチの)3人のメイドなの」という意味になるらしい。(と小谷野敦のtwitterで知った。だからオリジナルが「学校帰りの……」という意味だとみなしたうえで、「あたしたちはJK…

個人と集団

西欧は個人主義の社会で日本は集団主義の社会だ、という言い方はあまりされなくなったけれど、「西欧の政治家が当然のように学位を取得している」というのが本当なのだとしたら、それは、個人がスキルアップのために大学で何かに取り組む時期をもつ、という…

削る人々

最近ようやく黄色いの(cp3000前後でデンとジムに構えているあれ)をどうにか突破できるようになって、先日は12人がかりで「伝説」を倒す、というのに参加してしまいましたが、ゲームで破格に強いラスボスを連打でコツコツ攻めるのを「削る」と言ったりする…

学位と人徳

ヨーロッパにおける学位もちの政治家の活躍を眺めていると、あたかも、学位授与制度が人徳と教養を備えた人材を選別認定する仕組みとして機能しているかのように見える。それにひきかえニッポンは……。というつぶやきをみかけたが、円満な人格と幅広い教養を…

リセット

言葉ではなんとでもいえるが、国政はファミコンと違ってリセットを実装してはいないのだから、別にファミコンは勝利などしていない。

ペーリ/カッチーニ「エウリディーチェ」の日本での上演

学生時代、国立音大の高野先生の集中講義が阪大であって、そのときに、先生が国立音大で「エウリディーチェ」を(たぶん演奏会形式で)上演したときのビデオを見せていただきましたが、記録としては、ペーリ「エウリディーチェ」は1970年の東京室内歌劇場(…

客演指揮者たち

国際的には9月から10月が新しい音楽シーズンのスタートなのだし、9月末のオーケストラの定期演奏会は、やはり、常任指揮者で開幕を飾るのが本来の姿なのだろうと思う。7月にインバルのマーラー、9月にスダーンのシューベルト、10月にエリシュカのド…

金子みすゞと「子どもの誕生」と疑似著作権

金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ詩人の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。翌年の東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)には「積もった雪」「大…

関根敏子

そういえば、彼女は先の関西歌劇団公演を観に来ていたが、終演後、帰りの時間の都合なのか、あっという間に会場を出た。(混雑する前に会場を出ることにしている私より、さらに前に退出する早業だった。)ご自身の日本オペラ史の関西歌劇団関係の記述は色々…

赤い陣羽織:補遺

東条さんは、おそらく関西歌劇団関係者か林誠に楽屋かロビーで訊いたことをブログに書いているのだろうけれど、いくつか情報に曖昧なところがある。まず、「赤い陣羽織」を「白狐の湯」と組み合わせた上演は、初演後、既に何度か行われています。つまり、こ…

武智鉄二と代々木忠

ところで、武智鉄二は「白日夢」のリメイク版を撮るときに、女優のキャスティングで代々木忠のところへ相談に行った、という事実があるらしい。またもや妙な偶然ですが、そんなことを、「赤い陣羽織」を観に行く日の朝に知った。

白狐の湯

歌劇「赤い陣羽織」は何度か見る機会があったけれど、1955年の初演を踏襲した「白狐の湯」との二本立ては初見。([追記] 関西歌劇団の「赤い陣羽織」を「白狐の湯」と組み合わせた上演、つまり「白狐の湯」の再演は過去にも例があり、これが初演以来始めての…

Omnibus

バースタインが音楽講座を企画主演した50年代の北米のテレビ番組がそういう名前だが。。

正面突破

ゲームにおける裏技の意義は限定的な気がしないでもない。

芸術と政治的抵抗

仮に西欧では今も芸術が政治的抵抗として擁護されているとして、それはどのような社会的文脈でそうなっているのか、そして普遍的・世界的に模倣追随できる立場なのかどうか。年寄りにとっても無関心ではいられないこの疑問を若手にばかり期待して丸投げする…

リヒャルト・シュトラウスの山越え

アルプス交響曲は後半の嵐のなかに牧場の主題や泉の主題が前半とは逆の順序で出てくるので、往路と同じ道を下山するストーリーになっていることがわかる。アルプス(ドイツ・アルプスのツークシュピッツェ)を「越えた」わけではなく、頂上まで行って戻って…

AIと中庸と脳筋

たぶん、「中庸」「ほどほど」は、それが成果を上げているとしたらAIに学習可能だと思う。GoogleのAIの碁は全然「原理主義的」ではないし、AIの着手が「原理主義的」だったら、プロ棋士たちがAIを「先生」と呼んで学ぼうとはしないと思うんだけどなあ。(誰…

オーケストラと雅楽・邦楽

ということであれば、大澤壽人のコントラバス協奏曲の緩徐楽章がフルートに微分音を吹かせて龍笛を模倣しているのは、面白いサンプルではないかと思います。武満徹と黛敏郎が全然違う音楽を宮内庁楽部のために書いたように、戦前の作曲家の雅楽・邦楽へのア…

管弦楽曲の自作自演:指揮者としての大澤壽人

20世紀音楽史を捉え直すときには、単体の作曲技法史から演奏との関係を加味した視点にシフトする必要があると思う。ざっくり言えば、19世紀以前の西欧の音楽は自作自演が前提になっていて、一方、20世紀後半の音楽は作曲(設計図を書く仕事)と演奏(図面に…

映画音楽と読み替え演出

ふと思ったのだが、「2001年宇宙の旅」で人類の誕生にシュトラウスのツァラツストラを使ったり、「地獄の黙示録」でベトナムの空爆にワーグナーのワルキューレを使うのは、20世紀末のドイツの演出家たちのいわゆる「読み替え」の遠い源流のひとつだったりし…

熱線と光線/オーケストラの魅力と限界

ゴジラが口から吐いていたのは、のちの特撮映画のヒーローたちのような光線ではなく、熱線(白熱線とか放射熱線と呼ばれるらしい)なのだそうですね。火炎放射は第二次世界大戦で実際に米軍が硫黄島などで使っていたようで、ナチスはサーチライトによる光の…

放送音楽作曲家たちの咀嚼力

大澤壽人が留学から戻って東京と大阪で数度開いた自作自演オーケストラ演奏会の批評を見ると、東京では同業者が新参の洋行帰りの足を引っ張るようなことをして、関西では、耳の悪い評論家が同時代の音楽にお手上げで、「理解できない」としか言えない、とい…

「ミカド」のダンスとギャグのセンス

バーンスタイン「ミサ」でオペラ歌手たちがしっかり踊れていたことを考えると、「ミカド」の歌謡ショウ風のダンス(パラパラした手振り)が板に付かない中途半端なものだったのは、現在のオペラ歌手の水準云々というより、どういうダンスを作るか、方針や振…

阪神間山手モダニズムとキリスト教

巻末の謝辞には、取材先・資料提供者として、高島忠夫や飯守泰次郎と並んでわたくしの名前が入ってしまう巡り合わせになっておりますが、本文を読むと、留学までの神戸、関西学院時代で既に、惜しげもなく次々登場する名前に圧倒される。関西に限定されない…

プロとアマの境界に花開く都市文化の可能性

関西(とりわけ大阪)のクラシック・コンサートが減って、地元の「プロ」と呼んで良いのかはっきりしない手弁当団体と、東京や国際市場につながった公演の配合比率は、なんだか戦前・昭和前期に戻ったような感じがするが、そうなってみると、大阪の特性は手…