江村哲二さんのこと

作曲家の江村哲二が11日にご逝去されたと知りました。このことが報じられた昨日は仕事に没頭していて、外の情報をまったく見ていなかったので、つい先ほど知りました。(私は、たまたま5月の演奏会を聞いただけで、直接の面識はありませんし、残念ながら、江村さんのブログの前からの読者だったわけでもありません……。)
5月のトランスミュージック2007で「可能無限の頌詩」(初演)を聞いたときに思ったのは、日経夕刊(6/5)に書かせていただいたように、「これは<第九>だな」ということでした。昨年の「地平線のクオリア」に続いて武満徹さんへの思慕を隠さないところを含めて、ある種の遠慮のなさが、まるで人生の最終局面に達した人のような振る舞いに見えて、「この年齢で何故?」と当惑。性急に老成を欲しているような感じがしました。

いわゆる「ポストモダン」(終わりを超越したという意識)は、シニカルに物事を見切って、メタな視点に立つ「若年寄」の態度に傾いてしまうことがあるようです。江村さんもそういう人だったのだろうか、とその時には思っていました。

でも、そういうポストモダン的にヴァーチャルな「若年寄」ではなくて、これが最後になるかもしれない可能性を自覚しながらのお仕事だったのですね。

最後を意識した時に念頭にあったのが「クオリア」だったこととか、最後の作品が独奏ヴァイオリン(女性)とオーケストラによるヴァイオリン協奏曲的な音楽で、あまりにも、「作曲家の最後」のイメージに似すぎていることとか、容易に割り切れないものを残しつつのご逝去。

音楽はしばしば感覚的な芸術だとされ、二村と茂木も、西洋流の音楽理論の体系には批判的なようだ。しかし発言とは裏腹に、この日の二人は観念に突き動かされて走る行動の人であった。
(トランスミュージック2007評、「日本経済新聞」大阪本社夕刊、2007年6月5日より)