盛り場の「文化」と、景観の「脳内イメージ」(満開の桜でお琴が出てくる橋下大阪府知事について)

(最後に「追記」あります。そしてその後面白すぎる記事をみつけたので、「さらに追記」しました。)

やはり大フィルその他への補助打ち切りも大阪府改革PTで検討されているようですね(asahi.com: http://www.asahi.com/national/update/0426/OSK200804260010.html)。

そして、知事さんのお考えは、

大阪城の桜満開のところで出てくるものといえば、音楽で言えば、やっぱり琴が出てくるのかなと思うし、ミシシッピのあの川で蒸気船が行き交って、酒と町の木造の建物とパブや何やということになると、ニューオーリンズのあたりのジャズの音楽が出てきたりとか、景観があってそれに合わせて民が合わせたものをつくり出すんじゃないのかというのがあるので、先に景観がきちんと合っていないのに、これをやる、あれをやるということを選定しても受け入れられないと。

http://www.pref.osaka.jp/j_message/chiji-kaiken/file/20080423.html#osakaishin-program

満開の桜を見て、どんな音が脳裡に浮かぼうとそれは個人の自由だと思いますが、ちなみに私は、あまり「音」は浮かびません。

(景観にBGMをつけるというのは、実際にその場所を散策する人の発想というよりも、「無音」が続いてはいけないことになっているらしい(考えてみれば変な配慮だと思いますが)テレビ演出の発想なのではないかという気がなんとなくしますね。)

文化行政というのは、おそらく、そんな映像と音響の食い合わせについての連想ゲームをすることではなくて、土地のにぎわいをどのように演出するかということであるはず。お茶の間あるいは会議室で空想する「脳内イメージ」ではなく、「現実のその場所」、たとえば桜が満開の大阪城公園という場所に「音」が必要か否か、を判断することであるように思われます。

まさか、現在の大阪城公園に無数に配置されているスピーカーは、満開の桜をお琴のBGMで盛り上げることを目的にしているのではないと思いますが、そういえば「光」の演出はある時期から妙にさかんになりましたね。大阪城は、今も夜間は派手にライトアップされていますし。

ああいうのこそ「なくてもいい」のではないか。(どれくらいの節約になるのかは知りませんが。)

そういう風に話を展開できないから知事はダメだ、ということではなくて、知事に対して、そういう風に(というか、こういう素人がすぐに思いつくようなことではなく、もっと鋭く効果的なプロのレスポンスを)返すことのできる文化行政官がいなければいけないのではないか。

音楽団体が各種ホールで興行するのは、都市景観の脳内イメージに快いBGMを提供することではなくて、人が「街」に足を運ぶようになるための一種のきっかけ作り、一種のランドマーク作りなのではないのかな、と愚考します。

「音楽は心を豊かにする」と言いますが、ライブの音楽演奏は、別に、音が耳から体内・脳内へと入っていく「カラダにいい」サプリメントを供給しているわけではなくて、一定の時間・場所を雑多な人たちが共有する「お祭り」なのだと私は思っています。

そこでの出会いが人付き合いを円滑にして次の仕事につながるかもしれないし、ホールへの行き帰りに近所で食事をしてお金を落としてくれるかもしれないし……。そういうのを「経済効果」という風に説明するのが文化政策論的に正確な言い方なのかどうかはわからないのですが……。

「お祭り」はいらない、あるいは、財政難につき自粛、というのであれば仕方がないですけれど、自宅と職場を最短の距離と時間で往復するだけの生活で本当にいいのかどうか。

「大阪城のライトアップ」は、日没後に環状線で帰宅する皆さまの視界をお一人様につき数秒間だけ「なごませる」ことができるかもしれないけれど、そういう「一瞬のなごみ」効果と、実際に環状線の福島駅(シンフォニーホール最寄り駅の)で途中下車して、帰宅途中の数時間をそこで過ごしてくれる人が数百人あるいは数千人いることと、どちらを大切にするべきなのか。文化に関する政治判断というのは、そういうことだと思います。

(そしてその先には、そういう「街中」のお祭りのネタとして、交響楽団と、ポップスと、知事さんがお好きなのかもしれない「お琴」と、どれをどのくらい推奨するのがいいのか、という判断が必要になってくる。)

せっかく育ちつつある「盛り場」を財政難で一度閉鎖してしまうと、あとで財政に余裕ができたからといって、そう簡単には再開・再生できず、ふたたび莫大なコストがかかることになるでしょう。大阪府は、未来永劫、職場と家庭を直結する往復運動だけを推奨し、途中下車は民間で勝手にやってもらう、ということで本当にうまくいくのかどうか。

目先の節約と、そういう十年、百年スパンでのメリット&コストをそれぞれどんな風に見積もるか、そしてどちらを優先するか、というのが、政治家の見識であると思われます。

いずれにしても、お茶の間あるいは会議室で抽象的にイメージの連想を弄んでいても、話はとうてい生産的な方向へは進まないのではないか。

文化政策論的には、おそらくあまりにも初歩的な話なのだろうとは思いますが、とりあえずそんなことを思いました。

[追記]
PTの文化根こそぎカット案を実行したらどうなるか。もう少し考えてみました。ちょっとSF的になりますが。

PTでは黒田知事時代以後の政策をチェックしたそうですが、それはたぶん、文化行政としては検討期間が短すぎるでしょうね。

例えば、大阪市は昭和に入って工業化優先に大きく舵を切ったことで「煙の都」になってしまって、そのせいでお金持ちは「阪神間」(芦屋)に逃げたとされています。そして「民間」の音楽文化は戦前の大阪にはなかなか育たなかった。

そういう戦前の「苦節」を味わった人たちが戦後作り上げたのが大フィルをはじめとする現在の関西楽壇。現状の大阪のクラシック音楽は、ほぼ朝比奈隆の生涯90年と重なる長い長い物語だと思います。

で、橋下PTが「誤りであった」と総括しようとしているのはそのうちの直近の30年だけのことに過ぎません。たしかに80年代以後の施策で関西楽壇が補助金漬け体質になってしまったことの弊害はとても大きかったとは思いますが、その部分を丸ごと抜いてしまえば全体が根こそぎ死んでしまうかもしれない。昭和初期のような産業の活気は今の大阪にはもう残っていないわけですから、大阪には、いったい何が残るのかなあ、と思うとかなり不安ですね。

立派な道路や空港だけ残しても、それを利用する人や企業は、それほど残っていないわけですし、だとすると、ライトアップされた大阪城は、廃墟のシンボル? でもたぶん、PT案は割合本気でそれもやむなしという判断、労働空間と生活空間の中間は、荒廃しても仕方がない、という設計なのかもしれませんね。そしてこれから「民間」の音楽家たちで「廃墟に似合う音楽」を一生懸命作りなさい、と。

(音楽家というのは、ほとんど呪われたように音楽しかできない人たちだと思うので、そうなれば、本当に「廃墟に似合う音楽」を作り上げてしまうだろうとは思いますが……。)

残念ながら、こんな風に考えていくと「お琴」が似合う街になる可能性は少なそうですが(むしろ映画「トゥモロー・ワールド」のようになりそうな気がします)、橋下知事が描く未来像は、そういう廃墟の移動中にiPodで「春の海」を聴いて満面の笑み、ということなのでしょう。タレント業と弁護士業で分刻みだったこれまでの彼の生活は、そういう未来を先取りするものだったのかもしれませんね。

私はそんな生活は嫌だ。(映画「トゥモロー・ワールド」好きじゃないし。)

トゥモロー・ワールド プレミアム・エディション [DVD]

トゥモロー・ワールド プレミアム・エディション [DVD]

[さらに追記]

橋下知事、大阪を光の街に 御堂筋イルミネーション構想(Asahi.com: http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804240104.html

「大阪城ライトアップ」は必要なのか?と書いたら、どうやら知事さん、街がピカピカ光るのはお好きなようで、10月から堂島川沿いをライトアップ、12月に御堂筋の並木道にLEDを設置で費用は10億から20億円。府の全額負担は困難なので、民間の資金協力を仰ぐことを検討だとか。

桜を見て「お琴」が聞こえる橋下さんは、夜の並木道を眺めると「光」が見えるのでしょうか。それは一昔前の恋愛ドラマの感性……。テレビの見過ぎ(出過ぎ?)ではないかと思います。

余談ですが、オペラを観ていて、同じ会場でやっても、照明の発想が欧米からの引っ越し公演と、日本人の公演とで違うなあ、と思うことがよくあります。光そのものを見せる(モノを見せるために照らすのではなく)という手法は、欧米からの引っ越し公演ではあまり見かけないような気がするのです。

ロックコンサートなどは目つぶし的なレーザー光など、どこの国でも使うのでしょうか?

だとしたら、他のジャンルでは使う「光」の効果を自粛するのが欧米のオペラ照明の様式美。日本では、(セットにお金をかけられなかった場合など)代価手段も必要なので、「光」でなんとかすることが多いということでしょうか。

そしてホモキ演出「バラの騎士」第1幕の舞台奥からの強烈な光や、ザルツブルク版「フィガロ」の各種ライティングは、照明の点でも、シックな正調オペラ演出を崩しているということになるのでしょうか。

サーチライトというと〈20世紀〉フォックス社のファンファーレとか、夜間射撃の照明とか、深夜の逃走劇とか、20世紀or映画を連想させて、19世紀ブルジョワの娯楽には似合わない感じがするのですが……。

イルミネーションとは直接関係がないことですけれど。